日中ことばと文化コラム ありがたいことば 似たものことば とっさのワンフレーズ
日中ことばと文化コラム

ここには2種類のコラムがあります。ひとつは「中国語ことばコラム」です。これは中国語のことばそのものにこだわったエッセイです。もう一つは「日中いぶこみの風景」です。「いぶこみ」とは「異文化コミュニケーション」のことです。つまり日本と中国の広い意味での文化の違いを話題にしたエッセイです。これはオススメです。

【NEW】「いぶこみの風景」:30年ぶりの北京(岸 弘子)
  •  ここ数年、上海を中心に動いていましたが、久しぶりに北京に行く機会があり、5日間滞在しました。そして、着くや否や北京の渋滞の洗礼を浴びることになったのです。2、30分程度で移動できる距離を、2時間も車中で缶詰状態に。「近い」と聞いていたのでトイレを我慢して飛び乗ったのが運のつき。やはり車に乗る前はトイレに行っておくべきだったと後悔しました。
     3車線の道を、少しでも前に行こうと車線変更をする車がかえって進行を妨げ、時折鳴り響くクラクションが苛立ちに拍車をかけます。平日は、車のナンバーによって通行制限があるらしいのですが、自分の車が運転できない人はタクシーを使うことになるので、結局のところ、車の量は変わら ないんじゃないかな、と北京に住む人は苦笑いをしていました。

     また、北京は一つの「区」が非常に広い。隣町に行くのに何十分も車に乗らなければならないのです。かれこれ半時間ほど走ったころ「先生、まだ一つの区の中を走っているんですよ」といわれて驚きました。広い、大きい・・・が北京の印象です。
     渋滞と並んで北京の名物となっているスモッグですが、到着翌翌日の1日が少しひどかっただけで、ほかの日は青空を拝むことができました。幸せなことに、休日を挟んでいたので、会社の交通カードを拝借して、地下鉄に飛び乗り、天壇公園と王府井観光に向かいました。
     30年前、天壇公園に来たときは、南口から入り、まっすぐに北口に抜けるルートで足早の観光をしました。そのため に気づかなかったのかもしれませんが、そのルートを外れてぶらぶら歩いてみると市民の人たちが憩う普通の公園の顔も見ることができました。カラオケを楽しむ人、健康器具を使って体を動かす人、バドミントンに興じる人など、住宅地の中にある公園で見る風景となんらかわりがありません。
     王府井では、30年前、有名な北京ダックをいただきましたが、一人で北京ダックは食べ切れません(普通は4人以上で食べるそうです)。その日はあきらめて、いろいろな食べ物の屋台が並ぶ筋を散策してみました。30年前といえば、まだ外国人が人民元を使うことが許されていませんでした。外国人専用紙幣を、中国の人に両替してもらって、こっそり路地で買い物したのが懐かしいです。
     生きたままのサソリの串刺し(もちろん、注文したら焼いてくれます)、蚕のさなぎの串刺し、羊の串焼き、臭豆腐、何で色付けしたのかわからないカラフルなドリンクなど、奇奇怪怪なものがずらりと並んでいます。まだ残暑も厳しいのと、最近胃腸が弱ってきたこともあり、結局、お昼は百貨店の中の韓国料理を食べました。若いころなら「これが中国だ!」と飛びついていたでしょうが。

     さて、中国のマナーが向上したのか、私が中国になれたのか、昔ほどカルチャーショックを受けることが少なくなりました。
     ただ、役所の手続きには毎回泣かされます。電話で確認して行ったにもかかわらず、あれが足りない、これがだめ、のダメ出し。人によって、また、一人の人でも時間によって言うことが違うので振り回さ れっぱなしです。「規則はあるんですけど、人によって解釈が違うんですよ」手続きを手伝ってくれていた担当者に言われて、なるほど・・・とうなずいてしまいました。
    そんなこんなで、また中国に舞い戻って来ました。どきどきワクワクの始まりです。
【NEW】「ことばのコーナー」:「秋」と四字成語(郭 雲輝)
  •  今年(2017年)の夏は全国的に猛暑になり、残暑も厳しくなると予想されています 。先日、暦の上では、立秋となりましたが、なお猛暑が続いており、秋らしい秋が待ち遠しい毎日です。
     さて、日本では「秋」と言えば、「食欲の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」など、いろいろと連想されるでしょう。ここでは、ヒントを参考に秋に因んだ中国語の四字成語を連想していただくことにしましょう。(以下、四字成語の意味解釈には、主に講談社による『講談社中日辞典』第3版及び大修館書店の『中日大辞典』増訂第二版を利用した)

     問題① いちばん忙しい季節は?

     答え: 秋。“多事之秋”という四字成語をご存知だったでしょうか。「多事のとき、多事多難なとき」という比喩的な意味で使われるのが普通ですが、「事が多い秋、つまり、忙しい秋」というふうに、字面通りの解釈も許されるでしょう。

     問題② いちばん公平な季節は?

     答え: 秋。“平分秋色”(秋の景色を分かち合う。双方が半分ずつ分かち合うこと)という成語がありますが、やはりよいものを独り占めにするのはダメですね。

     問題③ いちばん敏感な季節は?

     答え: 秋。知っている方も多いでしょうが、“一叶落知天下秋”(一葉落ちて天下の秋を知る)”という漢詩の一句が“一叶知秋”(一葉秋を知る)と四字成語に短縮されている通り、一枚の落ち葉から秋の気配を感じてしまうのですから、やはり秋というのは敏感な季節と言わなければならないでしょう。ただし、“一叶知秋”は現代中国語では、「ちょっとしたことから事物発展の大勢を予測し得ること」という比喩的な意味で使われるのが普通です。

     問題④ いちばん長く感じる季節は?

     答え: 秋。何故なら、中国の最古の詩集である『詩経』には、“一日不见,如三秋兮”(一日見わざれば三秋の如し)という句があり、「一日会っていないだけなのに、まるで三年も会っていないような思いだ」という、彼女に恋い焦がれる気持ちが表現されています。それが後に“一日三秋”(思慕の切なること)という四字熟語として広く使われるようになってきているのです。ただし、日本語では、同じ出典に由来するもので、「一日千秋」といったもっと誇張された語形が多用されています。

     問題⑤ いちばん爽やかな季節は?

     答え: 秋。“秋高气爽”(秋空が高く澄みわたり爽やかな気候である)という四字熟語が、日本語では「天高く馬肥える秋」と、よく訳されていますが、「秋」の季節的な特徴を端的に表していると思われます。

     問題⑥ いちばん心配な季節は?

     答え: 秋。“秋后算账”(秋の取り入れ後に清算する。事が一段落してから白黒をつける。政治運動の収束後に機を見て仕返しをする)というように、この語はいろいろな意味で使われていますが、いずれの場合でも、その当事者は大変です。心配ぐらいで済めばよいですが、ひどい目に遭うこともあり得ますから、要注意です。

     問題⑦ いちばんときめく季節は?

     答え: 秋。“暗送秋波”(秋波を送る.こびを売る。ひそかに気脈を通じる)という成語は、女性が男性の気を引くために色目を使うという意味を表していましたが、現代中国語では、さすがに動作主体の制限がなくなり、男性にも女性にも使われるようになっています。なお、秋波を送った人としては、相手がどういう反応を示してくれるか、やはり気がかりでしょう。逆に送られた方はどう応じたらよいのか、手放しで喜べず、苦しむこともあるのではないでしょうか。

    ともあれ、「秋」という季節は多様な意味あいを持っており、人はその到来を今か今かと待ちわびるのです。
【NEW】「ことばのコーナー」:“全班”と「全クラス」(芳沢 ひろ子)
  •  “全班”という中国語はテキストなどによく出てくる。これを日本語にした場合どう訳すか?“全”はこの語の中では形容詞的に使われているから、日本語にすると「すべての」とか「あらゆる」という意味になる。一方“班”は「クラス」だからこの二つを合わせると「すべてのクラス、あらゆるクラス」、つまり「全クラス」となる。が“全班”の意味はそうではない。これは「クラス全体」と訳さなければならない。

     日本語の「全クラス」と「クラス全体」がどう違うかといえば、〇〇中学校の第一学年にA組、B組、C組の3組があったとすると、「全クラス」はこの3組全体を指し、「クラス全体」はたとえばこの中のA組のうち、そのA組のメンバー全体を指す。

     “全世界”となったらどうだろうか?これは「全世界」と訳しても「世界全体」と訳してもどちらでもよい気がする。“全日本”も同じ、「全日本」でも「日本全体」でも意味は変わらない。つまりこの二つは中国語でも日本語でも意味は同じになる。

     では“全市”はどうだろうか?これを「全市」と訳した場合、これは一つの「市」の中のすべてを指すのか、それとも一つ上の行政単位、つまり県などに管轄される市すべてを指すのか?つまり「とある市の中のすべて」なのか、それともたとえば東京都を例に取るなら、「東京都に属するすべての市」、26個の市を意味するのか?これは文脈によって変わってきそうだ。たとえば「〇〇市では全市をあげて応援する」と言えば前者だし、「東京都内の全市」と言えば後者の意味になるだろう。

     中国語では“全”のつく言葉、“全市”“全工厂”“全班”などの意味はすべて“全世界”、“全日本”と同じである。「市の中のすべて」「工場の中のすべて」「教室の中のすべて」となる。つまり中国語における“全N”はNに属するすべてを意味する。

     たとえば中国語で“京都,全市是一大公园。”(京都は「全市」が一大公園である)とは“京都,整个城市是一大公园。”(京都はこの都市のすべてがすみずみまで公園になっている)ということである。「京都府管轄の15の市すべてが公園になっている」という意味ではない。“全工厂”“全校”“全班”も同様である。したがって「中国におけるトヨタの全部の工場」と言いたい時は“丰田在中国的所有的工厂”となり、“丰田在中国的全工厂”とはならない。

     これがなぜ問題かと言えば、「全世界」「全日本」という日本語の「全」は中国語と同様、「全N」とした時「Nに属するすべて」を意味するが、「全市」「全社」などの表現になるとそうした意味のほかに、「○○県における全市」「○○企業グループにおける全部の会社」という意味が出てくるからだ。そしてこの後者の意味が中国語の“全~”にはまったくないからである。

     さらには“全班”と「全クラス」になると意味はまったく異なってしまう。“全班”は中国語における“全N”の定義どおり「クラス全員」の意味になるが、日本語の「全クラス」は「○○学校における、または○○学年における全クラス」の意味だけを持ち、二義性すらない。

     つまり日本語の「全N」は以下3つのタイプに分けられる。
    (1)中国語と同じ、Nに属するすべてを意味する。たとえば「全世界」「全日本」。
    (2)中国語と同じく「Nに属するすべて」という意味を持つ時と、「Nという単位と同レベルのものの総和」という意味を持つ時がある。すなわち二義性がある。たとえば「全市」「全社」。
    (3)「Nという単位と同レベルのものの総和」という意味のみを持つ。たとえば「全クラス」、「全大学」。

     これはなぜなのか。おそらく日本語に「全」という漢字が伝わった時、「かたまり的なすべて」と(中国語の“全”の意味)と「総和としてのすべて」(中国語なら“所有”の意味)が混同されたのではないか。そしてそれは「全」が修飾するNの性質によって(1)から(3)のタイプに分かれたのではないだろうか?

    (1)タイプはNが固有名詞的で同レベルのものが他に存在しない。そこで当然「同レベルのものの総和」という意味は持ちようがない。こうしてこのタイプは中国語と同じ意味になった。(2)タイプは同レベルのものが他に存在するので二義性を持つようになった。(3)タイプが「Nという単位と同レベルのものの総和」という意味しか持たない理由は難しい。単位が小さくてそこに属するものがイメージしづらいのだろうか?あるいは(2)タイプほど、Nという単位とそこに属するものの間に一体感がないということなのか?正直よくわからない。

     いずれにせよ、日本語の「全~」は上記三つの顔を持つ。中国語の“全”を訳す場合、どのタイプの顔なのか注意する必要がある。
【NEW】「ことばのコーナー」:意外と難しい日本語接尾語「~先」と「~元」の翻訳(三好 理佳)
  •  日本語には「~元」,「~先」という大変便利な接尾語があります。しかし,これを中国語に訳すとなるとすんなりと対訳が見つからないことが多いのです。
    身近な例では「宛先」,「送信先」などがあります。「宛先」を辞書で引くと“收信(件)人姓名,地址”shōuxìn(jiàn)rén xìngmíng,dìzhǐなどの訳語が載っていますが,「宛先」には名前と住所の二つの情報が含まれていることがわかります。また物を送る場合と手紙やメールを送る場合の中国語は異なるのですが,日本語は「宛先」1つで済みます。 そのため中国語に訳す場合,文脈によって訳し方を工夫しないと正確に伝わらないことがあります。

    1)宛先を間違えましたよ。
     你发错了。Nǐ fācuò le./你发错人了。Nǐ fācuò rén le./你发错地址了。Nǐ fācuò dìzhǐ le.

    2)宛先を教えて頂けますか。
     能告诉我收货人/收信人的地址和名字吗? Néng gàosu wǒ shōuhuòrén/shōuxìnrén de dìzhǐ hé míngzi ma?

     このように中国語は1つの表現に収まることがなく,文脈を踏まえながら表現を考えなければならない場面が多くあります。
     但し,「送信先」や「送信元」のような通信分野に頻繁に登場する用語は日常で使用される表現と違って,通常1つの定義としてどのような文脈でも用語が同じであることが望ましいのです。技術文書では「送信元」は“发送方”fāsòngfāng,「送信先」は“接收方”jiēshōufāngとある程度統一されているものもありますが,多くの場合は日本語のような簡潔な表現は見つかりません。
     たとえば通信関係でよく使われる「コピー先」,「コピー元」,「転送先」,「転送元」,「参照先」,「参照元」など枚挙にいとまがありませんが,いずれも中国語に翻訳するとき,ずばりこれだという定訳がなく,説明的になってしまいがちです。「コピー元」は“拷贝文件”kǎobèi wénjiàn,「コピー先」は“拷贝到~”kǎobèidào,「転送先」は“转发对象”zhuǎnfā duìxiàng,「転送元」は“转发方”zhuǎnfāfāngなどで対応することが多いようです。どうも英語の世界も,中国語と同じく, “copy to”,“copy from”,“transfer from”,“transfer to”といった具合に,あくまでも動詞文になってしまいます。

     日本語は「~先」と「~元」を自由自在にアレンジして意図としているところを簡単に的確に表現できるのですが,中国語にするとなると一筋縄にはいかないのです。
    接尾語としての「~元」は文字通り動作の出発点または動作主を表し,「~先」は動作の目的地,行き着くところ,対象を表します。これらの接尾語を使った日本語の造語力が高く,極めて自由度が高いことは以下の例からも見ることができます。

    仕入先/仕入元:采购地cǎigòudì,采购企业cǎigòuqǐyè/采购人cǎigòurén,采购方cǎigòufāng等

    派遣先/派遣元:外派公司wàipài gōngsī/外派公司wàipài gōngsi,外派方wàipàifāng等

    共有先/共有元:共享对象gòngxiǎng duìxiàng/共享人gòngxiǎngrén,共享源gòngxiǎngyuán 等

    委託先/委託元:委托企业wěituō qǐyè,承包方chéngbāofāng,分包商fēnbāoshāng/委托方wēituōfāng,委托企业wěituō qǐyè等

    出荷先/出荷元:发货地fāhuòdì,收货人shōuhuòrén/ 出货处chūhuòchù/发货地fāhuòdì,出货地chūhuòdì,发货方fāhuòfāng等。

     日本語の「~先」と「~元」は出発地と目的地を大きく捉えており,「~先」の目的地や対象を特定しない,個人を指すこともあれば,団体や場所を指すこともできる大変自由度の高い接尾語と言えます。一方中国語は,ディテールにこだわり,動作が向かうところがどこなのかを明確にする特徴があります。もちろん100%そういうわけではありません。実際,上記の中国語訳の中でも,同じ訳語でも「~先」と「~元」の両方を表せるものもあって少しわかりづらい面があります。例えば「派遣先」も“外派公司”wàipài gōngsī,「派遣元」も“外派公司”と訳すことができます。文脈によって派遣先の“外派公司”は「派遣される企業」であり,派遣元の場合の“外派公司”は「派遣業務をやっている企業」という意味になります。
     日本語の「~先」と「~元」の造語は細部をぼかしたにもかかわらず意味を取り違えるようなことはあまりなく,極めて単純明快な表現です。その便利さは中国語翻訳者の間でもよく話題になりますが,裏を返せば中国語への変換が難しく,翻訳の課題の一つとまで言えます。とりわけ通信技術分野の翻訳には出現頻度が高いことから翻訳者泣かせの表現と言っても過言ではありません。
     対処法としては無理に体裁を整えるのではなく,その日本語の意味に合った中国語を見つけることです。時には発想を変えて受ける側の立場に立った訳語,例えば前出の「委託先」は,委託される側という視点で“承包方”を導き出すことも一つのアプローチです。それでも訳が見つからない場合は説明するしかありません。「派遣先」「派遣元」などはそうです。ぴったりの表現は存在しません。ただ最近内輪の話になりますが,私の勤務先の翻訳チームでは「~元」に「~源」を充てるケースが増えています。例えば前出の「参照元」は“参照源”cānzhàoyuán と訳すようにしています。一般的に認知された用語ではありませんが,技術者の間ではわかりやすいと評判です。日本語の「元」とは発音も意味も同じで,すべてに当てはまる訳ではありませんが,技術関連の翻訳であれば選択肢の一つとして広めて行きたいものです。
     余談ですが,日本語の「~先」と「~元」は,必ずペアとして使われるというわけではありません。「~先」という造語の方が遥かに多いです。例えば「勤務先」,「就職先」,「取引先」,「老い先」,「請求先」,「保存先」など,それぞれ動作が行き着くところと理解すればわかりやすいと思います。これらの単語でも中国語にする時はちょっと頭を捻らなければならない時があります。「勤務先」は一昔前の中国でしたら,“工作单位”gōngzuò dānwèi ,「就職先」は“就职公司”jiùzhí gōngsī,「取引先」は“客户”kèhù,“生意伙伴”shēngyì huǒbàn,「老い先」は“余生”yúshēng,「嫁ぎ先」は“婆家”pójia,「請求先」は“报销处”bàoxiāochù,「保存先」は“保存处”bǎocúnchùなどとひとまず訳すことができますが,日常会話では場面に応じて様々な表現が考えられます。日本語ではほぼ固定した表現は中国語にする際は訳語の選択肢が豊富にあると言えるでしょう。こうした言葉は日本語に引っ張られずに視点を変えた訳出を心がけることが良い訳につながるのかもしれません。
     それにしても日本語の「~元」,「~先」は悔しいほど実に的確で便利な言葉だと思えてなりません。
「ことばのコーナー」:先づ隗より始めよ(川名 理惠)
  •  「先づ隗より始めよ」という言葉がある。中国の故事から来た言葉であるが,日本では「事を始めるためには,まず自分から始めなさい」という意味で使われることが多い。辞書を見ても,既にその意味は市民権を得ているようだ。しかしそのことに,私は違和感を禁じ得ないのである。

     出典は中国古典『戦国策』。
    “今王必欲致士、先從隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉”
    読み下すと「今、王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。況んや隗よりも賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」(王様が賢臣を呼び寄せたいのでしたら,まずこの隗からお始め下さい。私のような者が重用されたとなれば,私より優秀な人材が必ずや帰服することでありましょう)となる。

    戦国時代,大国の斉に破れた小国の燕の昭王が郭隗という人に賢臣の求め方を尋ねたところ,郭隗は「賢臣を招きたければ,まず自分のような凡庸な者を登用なさいませ,そうすれば自分より優れた賢臣が集まってくることでございましょう」と提案し,王がその通りにすると,果たして賢者たちが争って燕に集まってきた という故事である。

     それが日本では冒頭にあるように「自分が始める」意味に転じている。それはなぜだろうか。隗は確かに「隗(自分)より始めよ」と言っている。しかし始めるのは誰か?それは昭王である。ところが,前後を無視してこの一部分だけを取り上げて「自分から始める」ことにしてしまっては,いささかお粗末である。古典中国語に敬語が無いことも日本語訳において「自分」を行為者にさせてしまった原因の一つかもしれない。現代中国語では 「先づ隗より始めよ」の部分は“请先从我隗开始”と,“请”をきちんと付けている。これなら誰が行為者かは間違いようがない。この訳,「王様は私(を雇うこと)からお始め下さい」と訳されていれば間違いは起きなかったはずである。

     では現代中国ではどのような意味で理解されているのであろうか。
    この故事の中国語での説明は概ね以下の通りである。
    表示自我推荐。这个故事告诉我们,要招聘人才,不仅仅要放下架子,更要有诚心,要拿出实际行动。郭隗的聪明睿智令人佩服,他的勇于自荐,自我推销的方式也很有艺术性。现用来比喻渴望求得贤才。
    (自分をアピールすることを表す。この故事は,優れた人物を招聘したければ,雇う側が謙虚に,誠意を持って行動すべきであるとも説いている。郭隗の英知は人々を感服させ,自分の売り込み方も見事である。現在は賢明な人材を渇望し求めるという意味にも使われている。)

     従って中国ではこの言葉、「機知に富んだ発想で自分をアピールする態度を賞賛する」という側面に始まり,雇用者側の謙虚さを説く側面,そして現在では転じて「人材を渇望し求めている状況」を表す側面があるようだ。当然ながら中国では,「自分がまず着手しよう」という意味に転じることはない。

     ところで,何人かの中国人にこの言葉の解釈について尋ねてみたのだが,実は尋ねた三人が三人ともこの言葉や故事をご存知なかったのである。私にとってこのことは,日本で言葉の意味が変化してしまったことよりも更に衝撃であった。意味が転じているにせよ,日本国内では普段からそこそこ耳にする言葉である。それが中国の,それも最高レベルの大学を卒業した方々がご存知ないのである。

     実は中国では「無名な者が自分を売り込み、登用され,大活躍する」という故事が非常に好まれており,現在でも「一度就職試験で不合格になった者が,諦めずに機知に富んだ言動で合格になる」話を幾度となく聴いたことがある。従って「自薦」の意味で使われる言葉は他にもあり,中でも四字成語の “毛遂自荐”Máo Suì zì jiànはどの辞書にも掲載され,頻出語となっている。“毛遂自荐”の出典が『史记』であり,また四字成語であるということも,中国人に好まれる原因かもしれない。「先づ隗より始めよ」を肝心の中国人がよく知らないのであれば,日本国内で全く違う意味に転じて使おうと,害は無さそうである。しかし中国古典に親しまれている方にすれば,腑に落ちないことだろう。やはり生半可に使うことは得策でない気がしている。

     さて,国内に戻って日本での用例をみてみると,政治家が組閣について, 女性活用の観点から「まず隗より始めよという事で,女性閣僚を5人入れる」という発言が目に止まった。本来の,「人材を集めたければ凡庸な人材を厚遇すれば優秀な人材はもっと集まるだろう」という意味からすれば,女性閣僚に対し失礼極まりなく,まさに世の女性を敵に回す発言となりかねない。

     何年か前,議員会館の近くに長年店を構えている書店主が「ひと昔前の政治家たちは,みな読書家で,中国古典や難解な哲学書を好んで読んでいたものだが,最近の方たちときたら……」と嘆いていた。政治家に限らず,我々も「それらしい言葉」を使う前に,たまには原典を紐解いてみることが必要であろう。
「ことばのコーナー」:友人が中国語を始めました(岸 弘子)
  •  4月、初々しい学生たちが入学してきました。久しぶりに日本語の初級クラスを担当し、五十音から導入しました。相変わらず中国の学生にとっての難関は「清音」と「濁音」の区別です。「てってい」「けいけん」「こうこう」をディクテーションで書かせると「てっでい」「けいげん」「こうごう」と書きます。彼らには日本人が弱く発音してしまう語中や文中の清音が濁音に聞こえてしまうようです。中国語の「ka」も「ga」も、日本語では「か」だよ、と説明すると、「えー、むり~」とあちこちから弱音を吐く声が…。

     しかしながら、時は人を待たず、1か月が飛ぶように過ぎ、「そのうち慣れるから大丈 夫」と、いつもの手で学生たちを無理やり納得させて五十音も終了。次々にぶち当たる「助詞」「形容詞の変形」「動詞のテ形」という日本語の洗礼に、清音と濁音どころではなくなってくるのが正直なところです。

     さて、春の訪れとともに、新しいことを始めたくなるのが日本人。私のある友人も、五十の手習いに最近、中国語を始めました。前回会ったとき、「本屋で入門書を買ったし、週1回通える教室も見つけて。それにテレビ講座のテキストも買ったのよ、頑張るわ!」とやる気満々でした。
     今日、その友人から「久しぶりにお茶でも」とお誘いをいただいて出向いたところ、まず彼女の口から出た一言目がこれでした。
     「中国語に濁音はないでしょ。じゃあ、『ka』と『ga』はどう違うの?」 まさか1か月前にお茶を濁した問題に再会しようとは思ってもいなかったので、正直びっくりしました。なんでも、中国語教室の先生が「『ga』は、日本語の『が』です」と教えてくれたらしいのです。私はそれを聞いて、ああ、こんな先生が“刚刚到”を「ガンガンダオ」と発音してしまう日本人を作っちゃうんだと、ちょっと残念になりました。

     私が中国語にはまったのは、他でもない、その発音の美しさです。鈴を転がしたような響きの心地よさは、濁音がないからにほかありません。ティッシュを口の前において「ka、ga」とやればいいと聞いたことがありますが、私のような貧血もちには、かなりきつい練習方法です(長時間やると、酸欠でめまいがしてきます)。中国語の有気音の練習で倒れて 救急車…にもなりかねません。

     さあ、どう説明すればわかりやすいかな…。すると突然、頭の中に清音と濁音で苦しむ中国人学生のことが浮かんできました。待てよ、これを逆に考えれば…私はおもむろに「ねえ、『徹底的に』って発音してみて」と言いました。彼女は私の突然の一言に不思議な顔をしていましたが、それでも素直に「てっていてき」と発音しました。「多分だけどね、最初の「て」が「t」で、後のが「d」って感じだと思うよ。最初のは、ぱーって息をためて爆発させるような感じだけど、後のはそうじゃないよね。」「確かに!そうかも!」彼女の表情がパッと明るくなりました。
     他にも学生が間違いやすい清音を例に出して発音してもらったところ、「ああ、わかった気がする」と言います。正しいかどうかわかりかねますが、「濁音だよ」と教えるよりはましかな、と自分を納得させて一件落着。まあ、その後に控える「四声」“了”といった中国語の洗礼を受けると、彼女もそれどころじゃなくなるでしょう。
「ことばのコーナー」:中国語になった日本語(白根 肇)
  • この話題は、以前から様々なところで目にする。
    そこでまず触れられるのが、明治維新時、西洋文明の学問を積極的に採り入れようとした際、多くの英語を日本語に翻訳したことだろう。そして、来日していた中国人留学生は、日本で知り得た多くの語彙を中国に持ち帰った。「経済、哲学、銀行、社会、生産、歴史」など数えきれない。当時、中国の作家の多くは日本留学経験者であり、魯迅もその一人。彼の作品には、日本から持ち帰った語彙もたくさん使われている。「車掌、残念、時計」など数えきれない。そんな中、日本製中国語に不快感を示す中国人もおり、日本製中国語に対抗して中国独自の語彙を作り、「経済学」と「計学」、と「哲学」と「理学、智学」、「社会学」と「群学」など日本製中国語と共存する時代があった。最終的には、日本製中国語に軍配が上がり、今も“经济”、“哲学”、“社会”として使用されている。確かにこの中の「経済」というコトバ、“经世济民”(世を治め、民の難を救う)を連想させ、経済の意味とは結びつかないと考えた人がいたのは納得できる。そう言えば、以前日本の首相が「経世会」を結成したが、この「経世」という言葉、ここから引用したのであろう。“经世济民”が由来と思われる「経済」というコトバ、経済より政治寄りのニオイがするのは私だけだろうか。

    さて、その後も、同じ漢字使用圏として多くの日本語が中国に入っていった。
    ここ十年位前から最近採り入れられたものを見ていこう。

    先ずは、中国語にも同じ漢字があり、日本語とは違う意味のもの。それが、日本語の意味でも使われるようになったものだ

    “料理”。本来は「処理する」という意味。“料理家务”「家事をする」などとして使う。テストの時、中華料理を“中国料理”と書いて間違いとされた時代が懐かしい。

    “大丈夫”。“丈夫”は「夫」の意味。今では、“你大丈夫吗?”(大丈夫?)なんて使われている。

    “亲子”は“亲”(実の)“子”(子ども)といった意味で「自分の産んだ子、実の子」という意味で使われていたが、今では“亲子鉴定”(親子鑑定)と日本語の「親子」の意味でも使われている。

    次は、以前は日本の漢字を見ても意味がわからなかったものだ。今では、日本語と同じ意味で使われている。例えば“刺身”という漢字。以前はこのまま見たら「身を刺す」?と通じなかった。今では“生鱼片”と共に普及している。ほかにも“人气”、“写真”、“空港”までもが使われるようになったのは驚きだ。最近デパートで見た“卖场”も新鮮だった。

    “达人”は文字通り「達人」の意味。アメリカのオーディション番組“America's Got Talent”の中国語版“中国达人秀”はあまりにも有名だ。他にも 「オタク」を表す“宅男”、“宅女”や“超”、“准”などたくさんある。
    “准”は“准采用”(正式採用ではない)のように「正式ではない」「まだそのレベルではない」という意味だが、“准妈妈”という使われ方が面白い。今風の日本語に当てはめてみると「まだ正式なお母さんではない、もうすぐ、お母さん、でもまだママじゃない」ということだ。どんな意味だろうか。そう、「妊婦さん」というちょっとシャレ気を含めて使われる。

    また、ネットや漫画の吹き出しなどでよく見かける“萌”。もちろん日本語の「もえ」から来ている。「かわいい」の意味で“好萌啊!”と言ったりする。日本語の「チョー」(超)の字訳“超可爱!”もよく使われる。その「かわいい」の中国語“可爱”も、最近ネットで日本語の音訳“卡哇伊”kǎwāyīもよく見かける。

    それから“居酒屋”。日本のような「居酒屋」は中国では一般的ではなかった。しかし、食生活の多様性に伴い、おいしいものを少しずつ、数人でもグループでも、といったニーズにぴったりの居酒屋、最近中国でも進出し始めている。“餐馆”でも“酒吧”でもないので、ピッタリした言葉が見当たらなかったのだろう。この居酒屋、中国だけではなく、他のアジアの国々や欧米でも人気なのだとか。

    ちょっと変わったところで“壁咚”。そのまま「壁ドン」である。日本語ではいくつか意味があるが、中国で使われるのはもちろん、「イケメンが片手を壁にドンと置いて…」のアレである。

    また、最近日本で使われ出したGLを表す「百合」ということば、中国でも同様に使われているから驚きだ。因みに、反意語のBLは“基”と言うらしい。私の手元にある辞典にも“基佬”で載っているのでもう認識されているのだろう。“基”は広東語で“gei“と発音するので、音訳として入ってきた言葉だろう。
    私の最初の留学先は香港で、そこで覚えた“菲林”という単語を、20数年前、大陸へ旅行した時使う機会があった。雑貨屋さんで“这里有菲林吗?”と尋ねたのだが通じなかった。訊いてもダメなら書いてみろ、で“菲林”と書いてみても通じない。大陸では“胶卷”という全く違う単語を用いるのだ。“菲林”は広東語で“feilam”まさに英語“film”の音訳である。もし、デジカメやスマフォが発達していなかったら、“胶卷”も“菲林”に取って代わられていたのだろうか。同じく大陸で通じなかった言葉。英語 “taxi”の音訳 “的士”diksi、今では大陸でも普通に使われている。
    ついでに「茄子の汁」と書いて“茄汁”がなぜケチャップなのか。そう、広東語ではそのまま“kejap”と発音するのだ。
    というように、なんでこの漢字でこの意味?と思った時に広東語の発音を調べてみると意外とヒントが見えてくることがある。

    英国の文化の影響を受けた香港での音訳、明治維新時欧米の文化を採り入れようとした際の英語の邦訳。表現は違えど、何か共通するものがあるのかもしれない。
「ことばのコーナー」:“底”と“末”(相原 茂)
  •  「月末」のことを中国語では“月底”とも“月末”ともいう。また“年底”とか“年末”という言葉もある。一方,“周末”とは言うが,“周底”はない。こういう非対称的な現象があると,気になってしょうがない。

     思うに“末”は「すえ」であり「末端」である。つまり線条に伸びるものの末端を指す。「週末」とは月曜からはじまって火,水と線条に伸びてゆき,その最後の末端の土曜,日曜を指す。線条に細長く伸びる,一次元の終点を指す。

     それに対して“底”は本来「そこ」であるから,空間的であり三次元のものの底である。日本語でも「靴底」や「船底」,「鍋底」などという。いずれも容器状のものの底を指す。

     底といっても,容器状のものの内側だろうか,外側だろうか。例えば中国語の“鞋底”は辞書に“鞋子着地的部分”とあるから明らかに外側である。“釜底抽薪”という成語があるが,これも外側である。しかし“锅底”,“船底”などは内側と外側,文脈によって両方ありそうだ。まず“锅底”の例:

      1)她把大铁锅烧热,把很少量的油倒在锅底。<内側>(彼女は大きな鉄鍋を熱くして,少量の油を鍋の底へたらした)

     2)马全有脸黑的像锅底 ,眼里像是冒火。<外側>(馬全有は顔が黒く,まるで鍋の底のようで,目はらんらんと燃えるようだった)

     3)人生就像一口大锅,当你走到了锅底 ,无论朝哪个方向走,都是向上的。<内側>(人生は大きな鍋のようだ,鍋底まで落ちぶれれば,どっちにすすんでも,上に向かっていることになる)

     次は“船底”の例である。

     4)船底上全铺着木板,几百个人大声说话,大声欢笑,热闹极了。<内側>(船底には板がしいてあり,何百人もが大声で話し,笑っていた。それは賑やかなものだった)

     5)船翻了以后,大家忙着逃生,共逃出约30人,纷纷爬到船底上,当时大家齐喊:“来人呀,快救命!”<外側>(船が転覆し,多くの人が慌てて逃げ,30人ほど逃げ出して,次々に船底によじ上り,大声で「誰か,助けてくれ」と叫んだ)

     いずれも内外両方あることがわかる。
     さらに有名な成語“井底之蛙”では内側しか考えられない。
     以上は三次元のもので,かつ容器状のものについて考えたがこれを“月底”や“年底”に適応すれば,一ヶ月や一年という単位の時間がつまっている容器状のものの一番下の部分を指すということになる。そうすると“年底”なら12月の底ととらえているし, “年末”ならば線条にのびる月日の一年の終点というとらえかただ。
     線条の“末”は最後の一点を指す。“末日”は最後の日であるし,“末班车”も終電車である。“期末”は学期の終わりであり,“始末”は「初めから終わりまで」を指す。“世纪末”とは言うが,“世纪底”とは言わない。“末”はいずれも線条に流れる時間の「末,end」がイメージされる。

     “底”がはっきりと容器状を呈していない場合もある。
     6)恨不能钻到桌子底下去。(テーブルの下にもぐりこめないのが残念だった)
     7)太阳底下无新事。(日のしたに新しきものなし)
     “桌子”や“太阳”が容器と見なせないことが一つの要因であろう。それでも,三次元であり立体的であり,空間が想定できることは間違いない。想定された空間の底辺というとらえ方である。“末”が点的であるのに対して面である。

     次の例からも窺えるように,意味的には殆ど差がない。
     8)快到月末发工资的时间了。(もうすぐ月末の給料日だ)
     9)离月底发工资还有一个星期,这几天怎么过!(月末の給料日まであと1週間もある,それまでどうやってすごそう?)
    ただ,使用頻度から言えば,“月底”のほうが“月末”を圧倒している。

     なお、“祝你过个愉快的周末”(よい週末を)は言えるが、“周末”を“年末・年底”や“月末•月底”と置き換えることはできない。恐らく,“周末”は休日であるから、「愉快に過ごす」というような表現が使える。しかし、“年末・年底”や“月末•月底”は必ずしも休日ではないし、むしろ「年末」「月末」は押し詰まって,いろいろと多忙なので、「楽しく過ごす」とは言えないのではないか。
「ことばのコーナー」:カレンダー(相原 茂)
  • 「カレンダーが欲しい」そう中国語で言おうとして,ハタとことばにつまった。中国語には「カレンダー」に当たる単語がないではないか。
    一枚の紙に1月から12月すべてが印刷されているのは“年历” niánlìという。「年間カレンダー」だ。
    一枚の紙に,1ヶ月か2ヶ月が印刷されているのは“月历” yuèlìという。さらに一日一枚のものもある。これは“日历” rìlìだ。よくデスクの上におかれたりするから“台历” táilìともいう。
    だが“台历”はイコール“日历”でもないだろう。よく月単位のカレンダーで卓上に置くタイプのものだってある。“台历”は要するに形からくる命名だ。
    そういえばさきほどの“月历”でも壁に掛けるやつは“挂历” guàlìなどとも呼ばれる。“挂历”もまた形態による命名だ。
    ともかく中国語のカレンダーの言い方は面倒くさい。
    日本でも「日めくり」などという個別名もあるが,ふつうは「カレンダー」とか「こよみ」で全体を指す。1語で全体を表す語がないと不便ではないのだろうか。

    そう言えば「ふとん」なんかもそうだ。中国語の“被子” bèiziは掛け布団だ。敷き布団のほうは“褥子” rùziという。2つ合わせても“被褥” bèirùと言う。
    “被”と“褥”を合体させただけだ。「今日はふとんを干そう」というときは
    今天我要晒被子。Jīntiān wǒ yào shài bèizi.
    というだろう。“被子”のほうでなんとか「ふとん」を代表させる。
    かと思うと,「エスカレーター」と「エレベーター」を区別せず,どちらも“电梯” diàntìと呼んだりする。「エスカレーターで5階に行こう」と「エレベーターで5階に行こう」は,そのあとの行動が違ってくると思うのだが,不便でないのか,不思議である。

    中国語には“车站”chēzhànという言葉がある。これは「列車や電車の駅」でもあるし,家の近所の「バス停」でもある。ふたつを特に区別しない。こういうのはどちらが良いのか。いちいち言い分ける日本語のほうを,ああ面倒くさいと中国人は思っているのだろうか。

    日本語の「おじいさん」「おばあさん」は父方も母方もない。だから中国人は,「きのうおじいさんのウチにゆきました」というのを聞くと,一体どっちのおじいちゃん家に行ったのか,ついつい質問したくなるという。

    だから中国人に言わせれば,日本人が単に「カレンダーが欲しい」と言ったら,どんなかレンダーか,“日历”か“月历”,それとも“台历”かハッキリしろと突っ込みたくなるのではないか。

    「孫が生まれた」なんてのもそうだろう。中国語では“孙子” sūnziか“孙女” sūnnǚか,男女をはっきり区別する。一体,どっちが生まれたのだ,中国人は聞きたくてイライラするに違いない。私の経験では必ず聞いてますね。

    それぞれ自分の言語システムがよいと思うわけで,人は勝手なものだ。
「ことばのコーナー」:「兄弟」と“兄弟”(相原 茂)
  • 日本語にも中国語にも「兄弟」という言葉はある。中国語では声調の違いで2つの語に分かれる。
    A 兄弟 xiōngdì 1.兄と弟。2.兄弟に相当する。“兄弟単位”
    B 兄弟 xiōngdi 1.弟。 2.目下の人への呼称。
    このAとBはそもそも声調が違う。それに従って意味もはっきりと違う。日本語の「兄弟」はAに近いが,違いもある。たとえば
    「何人兄弟ですか。」
    などというが,これは「あに,おとうと,あね,いもうと」を含む。「兄弟げんか」という言い方もそうだ。日本語で「兄弟」といえば,男兄弟だけでなく,姉妹も含まれる。
    英語にもsiblingsということばがあり,これは兄弟姉妹を指すと聞いたことがあるが,話し言葉で使う語ではないようだ。ふだんのおしゃべりでは次のように言う。
    Do you have any brothers and sisters?
    それでは「何人兄弟ですか」は中国語ではどういうか。
    你有几个兄弟姐妹?
    といい,中国の場合は,日本式ではなく英語式だということがわかる。“兄弟”には姉妹を含む用法はない。

    ただ最近知り合った中国人に聞いたら,興味深いことに“姊妹”という語には男の兄弟をも含む用法があるという。つまり,
    姊妹几个?
    は「ご兄弟は何人ですか」に相当するというのだ。“姐妹”はよく聞くが,正直“姊妹”のほうはあまり耳にしたことがない。辞書を引いてみると“姊妹”はイコール“姐妹”と出ている。“姊妹”や“姐妹”が男の兄弟をも含むというような記述は正式な辞書には出ていない。
    したがって“姊妹几个?”が日本語の「ご兄弟は何人ですか」に相当するというのは,方言的な色あいが強いようだ。こういう問題は広範囲な人々にアンケートでもとれば,あるいは面白い傾向が出てくるのかも知れない。
    ただ,“我没有兄弟。”といえばふつうは「私は独りっ子」であることを指すだろう。わざわざ「姉妹」のほうに言及はしていないが。こんなことも合わせて聞いてみたい。
「いぶこみの風景」:いまどきの中国の“微信”ウィーチャット(楊 華)
  •  1998年4月から18年間、私は留学や仕事のため、ずっと日本で暮らしていた。諸事情により、去年の3月に故郷の中国河南省鄭州市に帰ってきて、地元の大学の外国語学部日本語学科の教員として仕事への復帰を果たした。周知のように、私が故郷を離れたこの18年間、中国は経済の発展にともない、目まぐるしい変貌を遂げた。そのため、帰国してから一年以上たった今でも、自分の国でありながら、その変貌ぶりを目の当たりにして、私は驚きと戸惑いの日々を過ごしている。

     先日、教員資格証書用の証明写真を撮りに実家の近所の小さな写真屋さんに行った。料金は12元で、100元札しかもっていない私に店の人が“没有零钱,微信支付吧。”(「小銭がないなら、ウィーチャットで支払ってください。」)と言ってくれた。こんなに小さな店でもウィーチャットで支払いができるのかとちょっとびっくりした。
     その後、今まで当たり前のように現金を持ち歩く自分が中国でいかに時代遅れになっているのか,いろいろな場面で思い知らされた。大きな店ならともかくとして、自由市場で小商人から野菜やお肉を買うとき、朝、軽い食事を屋台で済ませるときに、“微信”ウィーチャットのQRコードが当たり前のように堂々と薄暗い店頭に置いてある。ほかに、携帯料金やガス水道電気代の支払いなど、銀行振り込みと同じように利用できる。今、中国ではウィーチャットはもはや本来の姿であるSNS(ソーシャル・ ネットワーキング・サービス)の領域をはるかに超えて、生活インフラになりつつあると感じるようになった。
     これらのことをきっかけに、自分の身の回りの“微信”ウィーチャットの「いろは」を調べてみた。そこで、上述のような支払いに便利なサービスだけではなく、手軽に商売する場としても活用できるし、友人との親交を深めることもできる。そのほか、うれしいいろいろな予約サービスなどもできる。私が利用してよかったと思われるサービスについて以下、まとめてみた。

     まず、同じ職場の同僚たちもやっている“微商”(WeChat Business)を紹介してみたい。私の勤務先は外国語学部で、所属の教員は海外の留学経験者が多い。私の知る限り、留学先はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本などの国々である。これらの先生たちは留学時代に培った人脈などを使って、“微信”ウィーチャットの“朋友圈”モーメンツにいろいろな情報をシェアし、海外商品の代理購入販売のサービスを自分の“微店”(ウィーチャットが運営するショッピングサイト)を通して始めている。例えば日本の化粧品や電気製品、ドイツの粉ミルクやキッチン用品、オーストラリアの乳製品や薬などのような海外の商品は中国国内にいながら手軽に入手することができる嬉しいサービスである。勿論、中国国内の自分のゆかりの地域の名産物などを販売する微商(WeChat Business)も数多くある。“微信”ウィーチャットの“朋友圈”モーメンツに商品の情報をタイムアップし、自分のツイートを閲覧する知人や友人を相手に商売するのが特徴である。私も同僚の“微店”を何回か利用したことがある。便利なことは便利だが、売り手が知人であるがゆえに、万が一の時、商品についてのクレームがつけにくい。幸いなことに、今のところ、自分はまだ“杀熟”(商売などで知人や友人を騙す)に遭ったことはないが、悔しい思いをしたことは何回かあった。
     次に、意外な場面でも財布を持たずに済む“微信”ウィーチャットの便利さを挙げたい。前述のように、普通に買い物をするときやサービスを受けるときの支払いに使えるのは当然なことのようになったが、同僚や友人たちの結婚式のご祝儀、春節に子供へのお年玉、困った人への善意の寄付、街角の乞食へのお金など、すべて“微信红包”で済ませる。伝統的な赤色の結婚式のご祝儀袋やお年玉袋はその赤色の縁起のよさからまだたくさん使用されているが、いろいろな事情でその場に居合わすことのできない場合、お祝いの気持ちを表すには“微信红包”はもってこいの手段になりつつある。また、困った人への寄付も金額の多少を気にせずに自分の気持ちを気軽に表すことができる。新聞によると、最近街角の乞食も現代化を図って、首元にQRコードを印刷されたカードをぶら下げて、物乞いをするそうだが、まさに正真正銘の「乞食が赤包み」のようである。“微信红包”のもう一つの機能は祝祭日や自分にいいことがあった時に、“微信”ウィーチャットのグループ内で不特定な人にお金を配ることができることである。タイミングによって、受け取れる人もいれば受け取れない人もいる。受け取る金額もそれぞれ違ったりするゲーム性があるので、結構人気がある。
     ほかに“微信”ウィーチャットの予約サービスも広く使われている。病院の“微信挂号”、飲食店やホテルの“微信预约”などは日本のネット予約とよく似ている。違っているのが日本のネット予約は自分の情報を詳細に記入する必要があるが、“微信”ウィーチャットを利用した予約サービスはおなじみのQRコードを使って一瞬でできる。ちなみにありがたいことに、これらの“微信”ウィーチャットを使ったネット決済の手数料はほとんど無料である。
     また、“微信”ウィーチャットから発したほかのサービスには、“微公交”(タイムリーなバス運行情報)“微租赁”(レンタカーサービス)“微客”(ウィーチャットの経営と販売サービス)“微传播”(ウィーチャットやブログを媒介とした情報発信)“微视”(テレビ電話のようなチャットサービス)“微快车”(ウィーチャットビジネスのアプリ)などが見られる。最近私が購入した缶ビールのタブの裏にもQRコードが印刷されて、“微信”ウィーチャットでスキャンしたら、くじを引くことができる。当たったとしても0.68元か1.68元のような縁起のいい少額のお金だが、友達とビールを飲みながら、その場で、くじ運試しもできるので、とても楽しい。
     今時の中国では、まさにスマホを手にすると、怖いものなしの領域になりつつある。“网购”(ネットショッピング)“高铁”(高速鉄道)“支付宝”(ネット決済)“共享单车”(シェア自転車)は中国における現代の「四大発明」と言われている。この「四大発明」のうち、“高铁”(高速鉄道)以外のほかの三つとほぼ同じようなサービスは“微信”ウィーチャットを利用すれば簡単にできる。2017年2月に“微信”ウィーチャットのユーザ数は11億人以上になったそうであるが、私は“微信”ウィーチャットをこれからも楽しみたい。
「いぶこみの風景」:鍋を食べて歌を歌ったら(岸 弘子)
  • 今日の勉強で、「~たところ、・・・。」という文型を教えていました。
    「家へ帰ったところ、母から小包が届いていました。」
    数年前までは、こんな例文が普通でした。マンションに着いてエレベーターを待っていると、管理人さんから「小包が届いてるよ」と声がかかる。なんとも昭和の香りがしてきませんか。

    今のテキストの例文には「家へ帰ったところ、郵便受けに不在連絡票が入っていました」とあります。世の中、忙しい時代になったものです。そして、不在連絡票の読み方、問い合わせ方も一緒に勉強するようになっています。そのうちに、スマートホンの操作だけで事がすむ時代が来るかもしれません。

    ところで、学生たちが自分で短文を作るときになって、数名が「なべを食べて歌を歌ったところ、大変なことが起きました」という例文を作りました。私は全く理解できず「なべを食べて歌を歌うことと、大変なことが起きることの関連性は?」と聞いてしまいました。少し前、「どうして仕事をやめたいんですか」「世界がこんなに広いからです」というやり取りが理解できなかったときのように…。

    実は今、

    “要有风,要有肉;要有火锅,要有雾;要有美女,要有驴!你带着老婆,出了城,吃着火锅还唱着歌,突然就被麻匪劫了。。。”

    という歌が流行っているそうで、「なべを食べて歌を歌う→大変なことが起きる」となるそうです。もしテストで、こういう解答に遭遇したとき、これを正しいとするか、間違っているとするか…難しいところです。アラブの学生が「金を( )のように使う」を「金を石油のように使う」と書いた解答をどう採点するか…くらいに。

    言葉を学ぶことは、文化を学ぶことですから、当然、日本語は、日本の文化を理解した上で使わなければならない、と考えると、アラブの学生の発言は間違いということになりますし、中国人の学生の例文も日本人には理解できないので間違いということになります。

    でも、言葉はコミュニケーションのツールで、伝えたい人に、伝えたい内容が伝わればいい、と考えると、それぞれの国の中で通じればそれでいい、ということになります。日本人も、中国へ行くなら、中国の現状をしっかり勉強してから行け、ということです。

    さて、あと1週間で、国民的大行事である「大学入試」(中国語では“高考”)が始まります。“微博”にどんな書き込みが出現するやら…。そして,それがまた爆発的に流行するのがおもしろいところです。
「いぶこみの風景」:友だちも一緒にいいですか(岸 弘子)
  •  上海から帰国後、日本語に囲まれた生活をしていると、やはり中国語は錆びつく一方です。少し自分に厳しめの課題を与えなければ…と、週に一度通訳講座に通い始めました。
     早いもので、あっという間に半年が過ぎ、今週末の期末試験で基礎課程が修了。中国人11人、日本人3人でスタートしたクラスも、気がつけば、中国人4人、日本人2人になっていました。

     さて、最終日が近付いたある日、中国人のクラスメイトからLINEで「最終日に食事でもいかがでしょうか」というメールが届きました。普段はあまり食事会にも参加しないほうですが、最後くらいは…と「了解です!」の返信をしました。
     最近 、物忘れが気になる年齢になったこともあり、家に帰るとすぐに、カレンダーに「通訳科の食事会」と書き込んでおきました。すると、それを見つけた娘が、「あれ?その日って、中国語を教えてあげる日じゃないの?」と一言。

     実は、台湾旅行を計画している友人から中国語を教えてほしいと頼まれ、今月から週末にカフェ授業を始めたところなのです。私は特に気にも留めないで「そう。彼女も連れて行ってあげようと思って。勉強のモチベーションも上がるでしょ。」と普通に返事を返しました。
     それを聞くやいなや、娘は顔を曇らせて「それって、日本じゃNGのやつじゃない…」と厳しいご指摘。

     実は、自分でも気づかないうちに中国の習慣がふと出てしまうことが、帰国後半年以上過ぎた今でもあります。大概はまわりの身内に注意されて気づくのですが、その都度、苦笑してしまいます。

     例えば、中国で友達と食事の約束をしていたとします。当日約束の場所に着くと、全然知らない人が来ていて、「友達です」「いとこです」と紹介され、その後一緒に食卓を囲むということはよくあります。むしろ、約束した当人だけ、ということはほとんどありません。最初はびっくりしましたが、そこから新しい人脈ができることも多く、私もそのうち知人や友人を連れて行くことが普通になりました。しかし、言われてみれば日本ではないことですね。

     しまった…と、連絡をくれたクラスメイトに連絡を取ったところ、「友達?もちろん大歓迎よ!」の返事。そう言えば、参加者ほとんどが中国人なので、心配する必要もありませんでした。
     いやはや、次回からは気をつけようと思った冷や汗経験でした。
「いぶこみの風景」:日中結婚式くらべ(岸 弘子)
  •  先週の金曜日、同僚の中国人の先生の結婚式でした。その1週間前に姫路で長女の結婚式に出たばかりで、その違いに日中の文化の違いを感じました。
     まず、披露宴のテーブルですが、日本では、新郎新婦に一番遠いところに両家の両親・親戚、近くには友人が座るのが普通です。中国で、「新郎の両親は?」と聞いて、ステージに一番近いテーブルを指差されて「あれっ?」と思いました。中国では、反対のようです。

     式場は、上海のバンド22号の5階という絶景の場所。彼は、上海生まれの上海育ちで、地元での式と言うこともあって、当日は23テーブル、230人の人たちが集まり、会場は熱気に溢れていました。それぞれ誰が何番テーブルにつくかは指定されていますが、そのテーブルの何処に座るかは自由です。また、各テーブル2つの椅子の下に、プレゼント(ぬいぐるみでした)が隠されていて、当たった人はラッキー!というサプライズもありました(結局、そのテーブルにいる子どもにあげることになるんですが)。

     式が始まって気づいたのですが、司会も全く違います。「泣かせ」上手が日本の司会者だとしたら、「盛り上げ」上手が中国の司会者。とにかく、声高らかに、“新年晚会”を思わせる司会ぶりでした。新郎や新婦のあいさつも「お父さん、お母さん、今までありがとう」という内容は日中同じなんですが、雰囲気のせいでしょうか。
     日本では、会場が暗くなり、両親と新郎新婦がライトアップされ、静かな音楽の中、手紙を読みながらの花束贈呈でしたが、中国では、キラキラとミラーボールが輝き、食べる人は食べる、飲む人は飲む、話す人は気にせずおしゃべりを続ける・・・と言う雰囲気の中で壇上の新郎が両親のいるテーブルに向かって呼びかけるというものでした。中国では特に涙する人はみられませんでした。

     一番ありがたいのは、中国の披露宴は、普段着で出席できるという点でしょうか。私は新郎の先生の代講を仰せつかったので、当日は5時半まで授業があり、そのままの姿で駆けつけたのですが、全然気にしないで参加することができました。日本の式場には、出席者が着替えるための部屋があって、遠くから参加する人は、スーツやドレスを持って移動しなければなりません。履き物も考えると、かなりの荷物になります(ちなみに、中国ではスニーカーで参加しました)。

     最後に、中国では披露宴に参加しても引き出物はありません。“喜糖”と呼ばれる飴(今は、外国製のチョコレートのことが多いです)をもらって帰ります。行きも帰りもどこかレストランに食事にでも行く気軽さで、荷物に悩まされることもありません。他の同僚の先生と、せっかくここまで来たのだから、久しぶりのバンドの夜景を見にいこう、ということになり、1時間ほどぶらぶらして帰りました。週末で、観光シーズンということもあり、かなりの人でしたが、ライトアップされたパールタワーがとてもきれいでした。彼女曰く「夜でよかったね。水の色も、浮いているごみも見えなくて」。
「いぶこみの風景」:おにぎりとは,なんぞや?(岸 弘子)
  • 7月から始まった半年の研修が終わり、新入社員たちが現場に旅立っていきました。
    最終日に研修修了プレゼンテーションをやりますが、それだけだとつまらない…、とうことで「創作おにぎりコンテスト」を企画しました。4人1組になって、自分たちで工夫した「おにぎり」を競おうというものです。まあ、「おにぎり」なら、上海のその辺のコンビニにもあるし、中国にも似たような食べ物があるので、食べられないような悲惨な結果にはならないだろうと思っていました。
    本番一週間前のある日の授業でコンテストについて説明したあと、グループ分けをし、「おにぎり制作計画書」を書かせました。さすが現代っ子です。スマホを片手に「おにぎり」で検索し、いっしょうけんめいやっています。ところが、ふたを開けてビックリ!材料の欄には想像もしなかった食材が登場しました。「刺身」「いちごジャム」「ピーナツバター」「パプリカ」「トンカツ」…。
    できあがり図は、日本のネットをみたらしき人の顔のおにぎりや、色とりどりのおにぎりがきれいに描かれています。でも、彼らにとって、人の顔の口の部分に使われている食材が何なのか、色とりどりのおにぎりの緑や黄色が何なのか、全く想像できないようです。それよりも「おにぎりは保存食である」という原点が理解できていません。その証拠に、どのグループにも書かれていなかった食材は?・・・「塩」です!!
    そういえば、もう上海暮らし16年になる友人がいますが、彼がこんな話をしていました。16年前からお手伝いさんとして来てもらっている中国人の女性がいて、もう家族同然のように一緒に生活しているそうです。奥さんと一緒に台所に立っているとか。あるとき、奥さんが不在のとき、彼女が家族のお弁当におにぎりを作りました。卵焼きも、ミートボールも問題なく日本の味なのに、おにぎりだけがどこかいつもと違う…。どうしてだろう、と考えた末、「塩味」が足りないような気がする。帰宅後、彼女に尋ねると、案の定、塩をつけずに握ったと言われたそうです。
    さて、話はもどって、「おにぎりは保存食である」ことについて十分に説明し、「創作」でもあることだし、あとは彼らにまかせようと、それ以上は指示しないで当日を迎えました。当日、「先生、保存食を買いました」と得意げな彼らの机の上をみると、「ハム」「塩漬けの魚」「干し肉」「乾燥梅(甘い)」・・・(目が点!)。当日、手伝ってくれた中国人の先生に言わせると、「そもそも、中国の学校には家庭科がないし、最近は料理をしたことがない若者が多いから覚悟したほうがいいよ」とのこと。たとえば、熱いごはんと、冷たいハムを一緒にしたらハムがいたむとか、水っぽい野菜を使うと水が出てまずくなるとか、そういう「料理の常識」は全くないといいます。
    彼と各グループを周りながら2時間半の格闘の末、どうにかすべてのグループがそれらしき作品を仕上げました。試食は…創作過程を見ていない先生たちにまかせて、私たちは会社のお弁当を頂くことに。「へえ、結構、いけるね」と試食する同僚を見ながら、「あ、その中には水でもどした乾燥クラゲが…」「あ、それは生のピーマンが…」と心のなかでつぶやいていました。
    私も、蘇州にいるとき、家族のためにギョーザを作りましたが「これはギョーザじゃない」と言われた覚えがあります。肉は、ひき肉を使うべきじゃない、かたまりの肉を買って、自分でたたかなければ食感がでないそうです。「似ているからこそ」は、こんなところまで…。という経験でした。
「いぶこみの風景」:チケット騒動(岸 弘子)
  • 今日は中秋の名月ですね。
    日本の学校にもやっと慣れて、最初の学期も無事終了です。
    先日、帰国後バタバタして開く時間がなかった私の“偶像“の公式ホームページを開いてみました。すると、なんと!何年かぶりの全国ツアーをするというではありませんか。どうして上海にいるうちに気づかなかったんだろう、と悔やみつつも、困った時の神頼み、ドイツ留学中の私の"干儿子"にLINEでチケットの取り方を聞いてみました。
    回答は実にいまどきの若者らしく、「そんなの簡単だよ。淘宝でも何でもアクセスしてみれば?」の一言。そうか、その手があったかと「张学友演唱会」」で検索開始。ところが、チケットの値段が何とも妙なのです。あるサイトは126~1260人民元、あるサイトに至っては最高価格8000人民元になっています。
    う~ん、と行き詰まったところである人物の顔が浮かびました。そういえば、主人が近々深圳に出張に行くって言ってたから、ちょっと聞いてみよう。
    と、私としては軽い気持ちで連絡してみたのですが、それが主人を大変な目に合わせることになってしまいました。まず、ネットで販売されているチケットは100%本物というわけではなく、安く買えたと喜んでいたら偽物で、当日入場できないケースもあるそうです。また、正規のチケットではなく、ダフ屋が何倍もの値段で売り出していることも多いといいます。
    何せ人気の高いコンサートは、発売と同時に電話で予約をしなければならず、日本からだと国際電話のため、オタオタしているうに抽せん漏れになるとのこと。聞けば聞くほど大変そうなので「もういいわ。CDで我慢する。」と電話を切って数日後、「手に入るかも!」と主人からLINEが入りました。なんでも、コンサート主催団体のホームページを毎日チェックし、その日本側の仲介会社に登録したといいます。上海公演は完売だったそうですが、12月の香港公演がもうすぐ受付開始だから取れるかもしれないというのです。
    ある休日の昼下がり、娘とショッピングしているところに「取れた、取れた!お金も振り込んだよ!」というメッセージが届いた時は飛び上がってしまいました。すでに当日のコンサート会場周辺のホテルの空きも埋まり始めていると知るや、ホテルも押さえ、飛行機のチケットも予約してくれた主人には大感謝です!
    日本で台湾の歌手がコンサートを開いた時は、ネットでちょこちょこっと操作しただけでチケットが送られてきたのに、なんとまあ大変な事になってしまいました。
「いぶこみの風景」:恋しき仲にも礼儀あり(三好 理佳)
  •  この年で愛や恋の言葉を口にするだけで恥ずかしいので、ちょっとこのテーマは私には書きにくいかなと躊躇しつつの執筆です。
     勿論恋愛論のようなたいそうな話ではなく、ちょっとした小話です。そのきっかけは先日の食事会でした。会社の同僚の集まりで池袋にある日本に上陸したばかりの話題の「海底捞火鍋店Haidilao」に行ってきました。
     私たちの席の隣は誰が見ても周りと雰囲気が違う若者グループがテーブルを囲んでいました。「あれ明らかに中国の“富二代”だね!」(富裕層の子息の意、中国ではいざこざを起こすことの多いことですっかり嫌われている)という声がちらほらと耳に入ってきますが、わりと大人しくしていました。
     と思ったらその直後にその場にいるお客さん全員の注目を集める事件が起きたのです。突然「バーン」という大きな音と同時にお皿がテーブルに投げられ、ぶつけられたほかのお皿たちはガチャガチャと下に落ちてパリパリと割れ、騒然となりました。
     さらに,その中の1人の男の子がなにか大きな怒声を上げ、怒りにまかせて自分の荷物を持って出て行ってしまいました。 残された仲間たちはただ呆然と見ているだけでしたが、しばらくするとグループの一人の女の子がしくしくと泣き始めました。
     「なんだ、恋人の痴話喧嘩か、それにしても派手にやったね」と騒ぎがそれ以上深刻にならないだろうと胸を撫で下ろしたところ、中国留学経験がある会社の同僚の1人はこう言ったのです。「あれぐらいはきっと明日でもすぐ仲直りするよ、中国人は。日本人ならあれではもう終わりだろうけどね」。
     なるほど、さすがに留学生、なかなか中国人のことを分かっているんじゃないかと私はちょっと感心しました。確かに日本と中国とでは恋人同士の付き合い方はかなり違う印象を受けます。いまでこそネットでキス動画を公開したり、公共の場でいちゃいちゃしたり周りの顰蹙を買うことを全く気にしない若い人もたまに見かけますが、総じて日本の恋人は公共の場では親密な行動やけんかを控える傾向があるように思います。手を繋ぐカップルも中国に比べると圧倒的に少なく、恋人なのか、ただの友人なの傍目からわからないことが多いのではないでしょうか。
     しかし中国ではかなり趣が違います。電車の中でも、連れだって歩いている時でも、男性は女性のバッグを持ってあげたり、肩に手を回したり、甘い声で愛を囁き合いながら、キスしたりする自由奔放なカップルは珍しくありません。もちろん逆に大声で罵りあったりすることを目にすることもあります。日本に長く居すぎたせいか、帰省のときそういった情景を目にすると,私は思わず目を背けたくなりますが、周りを観察すると至って普通に受け入れているようです。夫婦関係でも、人の視線を気にせず親密さを表したりもします。
     私が勤める会社にも職場結婚している中国人夫婦がいて、とにかく仲がいい。四六時中一緒にいたいようで、お昼は必ず二人でお弁当を食べて、「あ~んしてあげたり,されたり」というのもあって周りから見ても少しやり過ぎ感があります。仕事への影響を考慮しての決定なのかわかりませんが、男性はとうとう韓国事務所の方に異動させられました。日本では職場結婚なら女性が退職するか、別の部署、または子会社異動というパターンが殆どです。同じ部署や会社で働くこと自体,本人たちも仕事がやりづらく、周りも気を使うことから嫌がるケースが多いようです。
     日本人は表面的にフランス人やイタリア人の情熱な恋を羨ましがりながら、それを実践したりしませんし、どちらかというと恋愛も結婚もやや淡泊のように見受けます。中国人はフランス人やイタリア人には及びませんが、もう少し親密さを表すボディタッチが多いように思います。女性は甘え放題、男性もあまり面倒くさがらずにそれを受け入れ、距離感というものには無頓着で、恋人同士や夫婦ならプライバシーも遠慮もないという考え方が一般的です。一緒に食事をすれば勿論男性が払います。友人のお嬢さんは台湾に留学したのですが、すっかり台湾のことを気に入ってしまいました。その理由は大学の男友達はみんな奢ってくれるからだそうです。まあ、その子は相当の美人だからという理由も無きにしも非ずですが。
     こうした違いから、外国人同士が恋人同士になれば、常識や感覚の違いでぶつかうり合うことも良くあると思います。もちろん違うから面白いと考え外国人と付き合ったり結婚したりする人もいるでしょう。もしあなたに中国人の彼氏、彼女ができたら、このような文化の違いを乗り越えられますか。昨日のレストランの一幕を見た私は、二人のその後を案じながらも、もちろん知る由もありませんが、今頃二人は仲よくどこかで一つのアイスクリームを食べているのかもしれません。そう願っています。でももう少し人への迷惑も考えて行動してほしいなと思います。「恋しき仲にも礼儀あり」を忘れずに。
「いぶこみの風景」:日本の不二家で叱られた話(岸 弘子)
  • 以前、相原先生がスターバックスで叱られたお話を書かれていましたが(『北京のスターバックスで叱られた話』相原茂著,現代書館)、私は、前回帰国時に、不二家で叱られました。
    叱られた…なら、まだいいのですが、店員の実に遠まわしな言い方に、せっかくの楽しいお茶の時間が、とてもしらけてしまった経験です。

    2年ぶりにニュージーランドの次女が、現地で知り合った主人(ドム)と、おなかの中のBABYを連れて帰国しました。久しぶりに日本のおいしいケーキが食べたいと言うので、長女も一緒に不二家に行こう、とういことになりました。

    店には、ケーキバイキングもありますが、長女とドムは量を食べる自信がないのでパフェを注文し、ケーキ好きの次女と私は、バイキングを注文しました。注文のときに「バイキングのケーキは、バイキングを注文された方のみになりますが、よろしいですか」と一言ありましたが、次女はドムに日本のケーキの味見をさせたくて、「まあ、一口くらいはいいだろう…」と各ケーキを一口ずつ食べさせていました。

    しばらくすると、一人の女性店員が近づいてきて「恐れ入ります。再度確認なんですが、ケーキバイキングの方は、こちらと、こちらの2名様でよろしかったですか」と、一言。彼女が言いたいのは、他でもなく「他の二人は食べるな」です。その視線と口調で、それは、ありありとわかりました。日本語が全くできないドムは“What?”と不思議そうでしたが、彼女の一言で、一瞬にして楽しい雰囲気がぶち壊しになりました。

    彼女が去ってから、「中国ではありえない…」「ニュージーランドでもありえない…」と、異文化議論が始まりました。
    中国では、「人が楽しむ」のが大前提です。厳しいマナーに縛られて食事をすることなど考えられないという文化があります。骨付き肉を食べながら、骨をテーブルの上に「ぺっ!」と吐き出すのにも、もう慣れてしまいました。
    先日も、日本人の友人が「この間、中国の友だちとレストランへ行ったとき、果物屋で買ったスイカを持って入った上に、店の人に包丁を借り、“料理が来る前に食べよう!”と言われたときは驚いた」と言っていました。私自身、注文した料理が店になかったとき、店員に「向かいの店にあるから、買ってきたら?」と言われて驚いたことがあります。とにかく、楽しく食事をする…これを一番に考えるというわけです。ニュージーランドでは、表向きは禁止していても、あからさまに客に注意することはしないそうです。

    長女は、「どうして日本って、すべてがマニュアルどおりなんだろうね…」とため息混じりにポツリ。確かに、そのおかげで、サービスの質や、平等を保ち、国際的にも評価の高い「日本のサービス」がある、という現実は否定できません。でも、そこには人間味が感じられません。いつも、日本の空港に降り立ったとたん、言葉にできない圧迫感のようなものを感じるのはこのせいでしょうか…。
    日本の「~なければならない」という規則で縛られた生活に慣れきっていた私は、中国で生活を始めて、「人が第一、規則は第二(規則は人のためにある)」という文化にカルチャーショックを受けました。しかしながら、反対にそれに慣れてしまうと、たまに帰国した日本で大失敗をやらかします。

    文化には長い歴史的背景があり、国で違っていて当たり前、優劣をつけるべきものではないというのが私の持論です。「郷に入らば郷に従え」で、不二家の店員さんを責めるより、自分の行為を反省すべきなのですが、外国人客がこれからますます増えるであろう事を考えると、接客する側も、相手の国の文化を理解し、楽しく食事を楽しんでもらえる工夫が必要なのではないかと感じたりもしています。
ありがたいことば

中国の諺や格言、名言を80ほど集めてみました。それを日めくり方式で1日一句紹介してゆきます。語学の勉強にもなりますし、中国人の考え方も分かります。唐詩や論語の一節なども含まれていますから、教養を身につけながら中国語センスを磨くのにも良いでしょう。その上、みんな「ありがた〜い」お言葉ですから、これからの人生の指針としても役立ちますよ。

有钱能使鬼推磨。
Yǒu qián néng shǐ guǐ tuī mò.

お金があれば鬼に臼をひかせることが出来る。

似たものことば

語彙的な言語と呼ばれる中国語。語形変化など,やっかいな文法がない代わり、語彙の量やその使い分けがポイントになります。常用語でも、いや常用語だからこそ、正確に使い、微妙なちがいにこだわりを持って欲しいと思います。ここにはハオ中国語アカデミーの類義語班の生徒諸氏の研究成果も含まれています。

【NEW】“炊事员chuīshìyuán”、“厨师chúshī”、“大师傅dàshifu”(郭 雲輝)
  •  先日授業中に、レストランを紹介する会話を練習していたところ、一人の学生が“……咱们去那个餐厅吧,那里的炊事员做的菜很好吃……”というセンテンスを作った。
     なんで“炊事员”なの?って聞いてみたら、「コックさん」で辞書を引いたら、“炊事员”が出てきたという。
     確かに、「コックさん」で辞書を引くと“炊事员”、“厨师”、“大师傅”などが出てくる。しかし、三者の使い方は必ずしも同じではない。その使い分けについて考えてみよう。

    ①“炊事员”
     炊事係、コック。これは主に会社、学校、軍隊などの内部の食堂の炊事係のことを指すのに用いられる。例えば、例1)の場合である。
      1)要是这样也要署名,报社食堂的炊事员比他更有资格。(戴厚英《人啊人》)
     それに対して、一般営業のレストランなどで働くコックさんを指す場合は、“厨师”、を使うのが普通である。そして、例2)、3)のように一種のポストを表す場合は、“厨师”、“大师傅”に置き換えられない。

      2)为了当好炊事员,刘志艳买来几本烹调书认真学习,并虚心向老战士请教,很快就成为炊事班的骨干。(1994年《报刊精选》)
      3)张晓梅在炊事员这个岗位上的10个年头里,5年被评为先进工作者,5年被评为优秀共产党员。(1998年《人民日报》)

     なお、同じ接尾辞“-员”による複合語ではあるが、“售货员”、“邮递员”などは、“炊事员”と使い方が違う。つまり、前者の場合は、職業・職種を表すのに用いられる。

    ②“厨师”
     料理人、コック、板前、調理師。職業の一種で、正式な言い方である。よって“一级厨师”“二级厨师”“高级厨师”などは言えるが、“大师傅”と“炊事员”に換えられない。

      4)一般高级厨师的月收入也在1万元以上。(1994年《报刊精选》)
      5)有十几个餐厅厨房和100多名厨师参加了以食品装饰、雕刻和食品烹饪等为内容的比赛,参赛作品有70多件。(1994年《报刊精选》)
      6)饭庄现有职工44人,其中厨师22人,特级厨师4人,是国家旅游局指定的定点旅游单位,营业面积320平方米,可同时接待260名宾客用餐。(1994年《报刊精选》)

    ③“大师傅”
     料理人、コック、板前さん。話し言葉であり、親しみが感じられるが、改まった場合には使えない。“厨师”に換えられることが多い。どちらかと言うと、内部からの視点による名づけということになるだろう。

      7)一次,一位南方城市的区长来区里谈工作,机关请示他是不是在街对面饭店安排用餐,润五同志说,还是严格执行区委、区政府的规定,按北方人说法,好吃不过饺子,就在食堂请客人尝尝我们大师傅的手艺。(1998年《人民日报》)
      8)吃饭的时候已过了,厨房已空闲下来,大师傅炒了两样菜,二师傅弄来一壶酒,两人正跷着腿在那里享受着这一天中最愉快的一个时辰,他们活着,也是因为每天还有这样一个时辰。(古龙《小李飞刀》)

     その他に、次のような言い方もある。
     “掌勺的”、“灶儿上的”、“掌灶儿的”、“大厨”など。ただし、“掌勺的”、“灶儿上的”、“掌灶儿的”のような動詞的な表現が連体修飾語として使用され、その後ろに“炊事员”、“大师傅”、“厨师”、“大厨”が付いている場合が多い。“大厨”は“大师傅”とほぼ同じ意味であるが、特別に料理長の意味を表す場合もある。

      9)中午的大厨是个中东人样子的北京人,黑黑的皮肤,幽深的眼神,脸上总是挂着温和的笑容,他身形魁梧,一带上厨师帽,还真有大厨的“派头”。这是一个常年在豪华游轮上掌勺的大厨,因此西餐做得非常出色。(李开复《世界因你而不同》)
      10)负责晚餐的这位大厨则是个不折不扣的中国小伙子。他是来自青岛第一家五星级饭店的总厨,身材不高,但总是充满自信。(李开复《世界因你而不同》)

“别”bié、“不要”búyào(川名 理惠)
  • “别” と“不要”は,ともに副詞であり,連用修飾語として形容詞,動詞(句)の前に置き,しないように制止したり,禁止をする意味で用いられる。

    “别”は“不要”の合音であり,互いに置き換えられることが多いが,“别”には“劝阻”quànzǔ(しないように忠告する)の意味が,“不要”には“劝阻”のほかに“禁止”jìnzhǐ(禁止する)の意味で使われることが多いため,ネイティブの語感では,“不要”の方が“别”よりも語気が強いと感じる。

    また,“别”は気のおけない間柄の人や知っている人に対してフランクに使われ,よく知らない人に使うと失礼で遠慮がない印象を与える。それに対し“不要”は比較的丁重であるが,それゆえ「冷ややかな容赦なさ」を持ち合わせているといえる。

    1)你别(/不要)着急,我来帮你!
      Nǐ bié(/búyào) zháojí,wǒ lái bāng nǐ!
     (焦らないで,私が手伝いますから)

    2)别(/不要)高兴得太早, 比赛还没结束呢。
      Bié(/Búyào) gāoxìng de tài zǎo,bǐsài háiméi jiéshù ne.
     (喜ぶのはまだ早すぎる。試合はまだ終わっていないんだから)

     “别”は目の前の一人, 或いはごく少数の人に対し, 咄嗟に制止を促す際に使われることがある。この場合は即時性に重きが置かれ,“别”+動詞のみで表される。この用法,「あわやの“别”」とでも言えようか。

    3)“别动!”
      Bié dòng!(動くな!)

    4)“别吃!”
      Bié chī!(口に入れるな!)

    5)“别说!”
      Bié shuō!(言わないで!)

    例文3)は,銃を構えながら相手に「動くな(動くと撃つぞ!)」というような場面や, 蜂が来て,動くとかえって危険なため「動くな(動くと蜂に刺されるぞ!)」というような場面に使われる。
    4)は,例えば子供がテーブルの上に置いてある薬を口に入れようとした時に 「ダメ!(口に入れるな!)」と,急いで制止するような場面である。 また5)は,他の人に聞かれたくない秘密を話されそうになり,「ダメ!(言わないで!)」と即時に口止めをするような場面であり,いずれも目の前の一人か,ごく少数の相手に対し,非常に切迫感を伴って発話をする用法である。この用法では“不要”は使われない。

    “别”にはまた,単独で使われる用法がある。

    6)“我就先走了!”-“别,咱们还是一起去吧。”
      “Wǒ jiù xiān zǒu le!”-“Bié,zánmen háishi yìqǐ qù ba.”
     (「お先に失礼するよ」―「ダメ,私たちやはり一緒に行こう。」)

    6)のように,主に会話の中で相手の言い分を「ダメ!」と打ち消す際,単独で使われる。“别,别,”(「ダメ,ダメ」)と重ねて使われることもある。“不要”にはこの用法はない。

    “不要”は,比較的フォーマルな場,公共性の高い場で,不特定多数の人に対して「制止」や「禁止」をする際によく用いられ,“请”を伴い“请不要~”で「どうか~しないで下さい」のように使われることが多い。“请别~”は使われなくはないが,“请”は,前述のように丁寧さをもつ“不要”との方が相性が良い。“不要”は また口語だけでなく,書面語にも用いられ,しばしば標語やスローガン,禁止事項の記載や説明に用いられる。

    7)不要(*别)随地吐痰, 违者罚款。
      Búyào suídì tǔtán, wéizhě fákuǎn.
     (むやみに痰を吐くのは禁止。違反者は罰金です)

    8)在燃料或化学制品附近时请不要使用本设备。
      Zài ránliào huò huàxué zhìpǐn fùjìn shí qǐng búyào shǐyòng běn shèbèi.
     (燃料や化学製品の近くで本設備を使用しないで下さい)

“歇”xiē、“休息”xiūxi(相原 茂)
  • “歇”を辞書で引くとイコール“休息”とある。どちらも「休む」である。
    だが,“歇”の本来の意味は,「動作をやめる」ということだ。

    歇手xiē shǒu  歇脚xiē jiǎo  歇工xiē gōng  歇晌xiēshǎng

    “歇手”は「手の動きを止める→手を休める」,
    “歇脚”は「脚の動きを止める→脚を休める」,
    “歇工”は「仕事をやめる」だ。
    “歇晌” xiēshǎngは「昼休みをとる」だが,

    例えば農村で野良仕事をしていて,昼になり仕事の手を休める,あるいは工事現場で昼をとる,そんな意味だ。つまり,肉体労働をやめる,具体的な動きをやめる,それがイコール「体を休める」ことにつながる。

    “你一边歇着去。”Nǐ yìbiān xiēzhe qù.といえば,余計なことはしないで,わきで休んでな,
    という語気だし,“歇歇你的嘴吧。”Xiēxie nǐ de zuǐba.も余計なおしゃべりは止めなということだ。「何かをやめる」ことから「休む,休息する」意味が出てくる。

    これに対して,“休息” xiūxiはそれ自体が一つの積極的な行為である。例えば,歌や踊りの合間に“现在休息十分种” Xiànzài xiūxi shí fēnzhōng.という。10分間休憩だ。観客は別に肉体労働をしていたわけではないから,ここで「具体的な動きをやめる」“歇”を使ってはおかしいわけだ。

    “休息”は動作の欠如ではなく,積極的に「休息をとる」,時には「療養する」や「眠る」という意味になる。

    Tā zài hǎibiān xiūxile shí tiān.
    他在海边休息了十天。
    (彼は海辺で10日間休養した)

    Yīn bìng xiūxile yì nián.
    因病休息了一年。
    (病気のため1年間休んだ)

    Nǐ zǎo diǎnr xiūxi ba.
    你早点儿休息吧。
    (早めにお休み)

    時間的にも,いつ休みをとるかが定まっていたり,制度として組み込まれている場合がある。

    xiūxi shíjiān
    休息时间
    (休憩時間)

    Nǐ měi tiān jǐ diǎn xiūxi?
    你每天几点休息?
    (あなたは毎日何時に休みますか)

    “休息”は後に「真目的語」はとれない。要するに「ある動作を止める」という意味は“休息”にはない。
    “休息十分种”のように数量補語なら可能だ。“休息”の反義語というか,対になる語は“工作” gōngzuòだ。

    Xiǎo-Lín shànyú xiūxi, yě shànyú gōngzuò.
    小林善于休息,也善于工作。
    (林君は休みもよくとり,仕事もよくできる)

    Xiūxi shì wèile gèng hǎo de gōngzuò.
    休息是为了更好地工作。
    (休息はさらによく仕事をするためだ)

    いずれも「良く学べ,よく遊べ」という感じだ。一方の“歇”にはそういう対語が思いつかない。
    文法的には,“歇”は単独で使えない。“歇手”のように目的語をとり2音節化するか,“歇着xiēzhe,歇歇xiēxie,歇会儿xiē huìr”のようにする。逆に“休息”のほうは“休息着”が言えない。

    (執筆:相原 茂)

“仿佛”fǎngfú、“好像”hǎoxiàng(安本 真弓)
  • 比喩的な表現で、「乙は甲のようだ」という場合に使う。ただ、“仿佛”は書面語、“好像”は口語によく使われる。

    1)Shūzhōu jìnjiāo de chūnqiū jǐngzhì fǎngfú shì wài táo yuán.
    苏州近郊的春秋景致仿佛世外桃源。
    (蘇州近郊四季の景色はあたかも桃源郷のようだ。)

    2)Qiáoqiao zhèxiē zhǔchí rén, gège hǎoxiàng biànsèlóng.
    瞧瞧这些主持人,个个好像“变色龙”。
    (これらの司会者を見てみな、みなまるで「カメレオン」のようだ。)

    したがって、訳し方では“仿佛”は「あたかも~ようだ」、“好像”は「まるで~ようだ」と区別することができる。
    動詞としての使い方は上記以外に、“仿佛”の前に“相”を加え、“相仿佛”という固定表現とすることができ、これは単独で述語になり、類似を表す。“好像”はそういった使い方はなく、上の例のように必ず目的語を伴う。

    3)Péngyou yú wénwù xiāng fǎngfú, yuè gǔlǎo yuè xiǎnde zhēnguì.
    朋友与文物相仿佛,越古老越显得珍贵。
    (友は骨董品によく似ていて、古ければ古いほど値打ちがある。)

    一方、副詞として使う場合には、あいまいな感覚やあやふやな判断などを表す。 “好像”は“仿佛”より使われる。また、その違いは動詞と同様に、“仿佛”は書面語、“好像”は口語として使う。

    4)Tiān hǎoxiàng yào xià yǔ le.
    天好像要下雨了。
    (もうすぐ雨が降りそうだ。)

    5)Sān sì yuè jiān de hú shuǐ qīng de fǎngfú néng kàn jiàn shuǐ de línghuí.
    三四月间的湖水清得仿佛能看见水的灵魂。
    (3、4月の湖は清く、水の魂がみえるようだ。)

    さらに、“仿佛”と“好像”両方とも、後ろに“似的、一般、一样”などと共起することができ、語気を強める役割を果たす。

    6)Jīntiān néng jiàn dào nǐ,zhēn de hǎoxiàng zài zuòmèng yíyàng.
    今天能见到你,真的好像在做梦一样。

    7)Tā wánquán hūlüè le nàxiē shìshí,jiù fǎngfú tā bù cúnzài shìde.
    他完全忽略了那些事实,就仿佛它不存在似的。
    (彼はそれらの事実を完全に無視し、あたかも存在しなかったかのように。)

    以上、“相仿佛”という固定用法以外に、“仿佛”と“好像”の区別は、書面語で使うか口語で使うかによって、出番が異なる。

    (執筆:安本 真弓)

“觉得”juéde “认为”rènwéi “想”xiǎng “看”kàn(田 禾)
  • “觉得/认为 /想/看”はいずれも「~と思う」の意味を表す。
    例えばある問題について「こうすべきだと思う」と言う場合には、この4つをいずれも使えるが、意味的には“认为”→“看” →“想”→ “觉得”の順にフォーマルからインフォーマルになる。

    1)Wǒ {rènwéi / kàn /xiǎng / juéde} yīnggāi zhèyàng zuò.
    我{认为/看/想/觉得}应该这样做。

    “认为”はある情報や知識をもとに判断を下し、意見を主張するという意味がある。
    例えば会議の場で正式な提案や見解を求める或いは発言する場合に用いられ、「感覚で」どう思うかのような「軽い」考えを述べる際には使わない。
    「感覚」として「思う」場合は“觉得”、或いは「目で見てどんな印象をもつか」を表す“看”が使える。

    2)Wǒ {juéde / kàn} zhè jiàn yīfu búcuò.
    我{觉得/看} 这件衣服不错。
    (この服はなかなかいいと思う。)

    “想”は例2)には使いにくい。“认为/看/觉得”が「正しいかどうか」或いは「よいかどうか」を判断するのに対し、“想”は頭の中で思案する、考えを巡らすことを表わし、主に具体的にどのようにするかという「アイデア」などを述べる際に使われる。そのため、単に「よいかどうか」を確認する際には、“想”はあまり使われず、相手に具体的にどうすべきかを提案する時にこそ相応しい。
    この場合は“认为”“看”“觉得”も使用可である。

    3)Wǒ{juéde / kàn / rènwéi}zhèyàng zuò bú duì.
    我{觉得/看/认为}这样做不对。
    (このようにするのは正しいとは思わない。)

    4)Wǒ {xiǎng / juéde / kàn / rènwéi} nǐ zuìhǎo zhǎo tā tántan.
    我{想/觉得/看/认为}你最好找他谈谈。
    (彼と話したほうがいいと思う。)

    否定形では、“想/觉得/看/认为”のいずれも“不”を使って否定できる。以下の会話文の中で、この四つの言葉の基本的な違いを確認しよう。
    5)Zǒu,yíkuàir chūqu wánr!
    A : 走,一块儿出去玩儿!
    (行こう、一緒に遊びにいこう。)
    B : Wǒ bù xiǎng.
    我不想。
    (行きたくない。)

    6)Lěng ma?
    A : 冷吗?
    (寒い?)
    B : Wǒ bù juéde.
    我不觉得。
    (感じない。)

    7)Xiànzài zhǐnéng zhèyàng zuò.
    A : 现在只能这样做。
    (今のところはこうするしかない。)
    B : Wǒ bú rènwéi.
    我不认为。
    (わたしはそう認識していない。)

    8)A : Qù kànkan zěnmeyàng le.
    去看看怎么样了。
    (どうなっているのかちょっと見に行ってきて。)
    B : Wǒ bú kàn.
    我不看。
    (見ない。)

    以上から“想”と“看”は“不”を加えると、ともに「思う」「考える」の否定ではないことがわかる。“我不这么~”という言い方にすると上記4つはいずれも「自分はそうは思わない」という表現として使える。

    9)Wǒ bú zhèmen {xiǎng / juéde / kàn / rènwéi}.
    我不这么{想/觉得/看/认为}。

    以上から次のようにまとめることができる:
    “认为”: 「判断・認識して」主張を述べるにあたり「…と思う」場合
    “看”: 「目でみてどんな印象を持つのか」、「あなたの立場からどう見るか」を言う場合
    “想”: 「具体的にどのようにするか」、または「どういう状況か」を推測して「思う」場合
    “觉得”: 「感じて」「直感・感覚」で「思う」場合

    最後に二つ注意点。「あなたはどう思いますか」と言うとき、“怎么”或いは“怎么样”を使って文を作れるが、“觉得”は“你怎么~?”が言えない。

    Nǐ zěnme {xiǎng / rènwéi / kàn} ?
    你怎么 {想/认为/看}? (×觉得)
    (あなたはどう思いますか。)

    “怎么”は「やり方・方法」をたずねる疑問詞。そのため“觉得”のような「感覚」には「やり方,方法」が考えられないので“怎么”を使って質問できない。
    もう一点,“想”は“你~怎么样?”のように用いると意味が異なり「〜したい」を表す。

    Nǐ {juéde / rènwéi / kàn} zěnmeyàng?
    你{觉得/认为/看}怎么样?
    (どう思いますか)

    Nǐ xiǎng zěnmeyàng?
    你想怎么样?
    (どうしたいのですか。)

    “你想怎么样?”はほかの動作主が“想”の後に現れていないので、“想”の目的語=「アイデア」をたずねていることになり、具体的にどうするのかを聞いている。そのため文の全体は「どうしたいか」をたずねたことになる。

    (執筆:田 禾)

“包儿”bāor、“袋儿”dàir、“兜儿”dōur (付 立華)
  • “包儿”は物を外から包み込むようなものをいう。まわりをしっかり縫い合わせたもの,或いはのりなどで閉じたものもある。

    例)香包儿xiāngbāor (匂い袋)、邮包儿 yóubāor(郵便小包)

    ただ包んだだけのものもある。

    例)纸包儿 zhǐbāor(紙の包み)、药包yàobāor(薬の小包)

    また“包儿”は口があって、ものを出し入れすることができるかばん状のものを指す。その口はファスナーやボタン、紐、あるいは折りたたんで閉じるなど,密封する装置が施されているものが多い。

    “包儿”の中にポケットや仕切りを施して、整理整頓しやすく取り出しやすい工夫がなされている場合が少なくない。
    “包儿”は一般的に提げ手やショルダーストラップ、稀にウェストバッグのように体に巻きつけるベルトがついている。

    要するに,モノを出し入れするための工夫,収納するための仕切り,持ち運ぶための小道具が発達している。よく使われる単語は以下のようなものだ。

    例)手提包儿 shǒutíbāor (手提げ袋、手提げかばん)、
    书包儿 shūbāor(ランドセル、学生用かばん)、背包儿 bēibāor(リュックサック)、
    钱包儿 qiánbāor(財布)、腰包儿 yāobāor(ウェストバッグ)

    “袋儿”は一方の口が開いている袋状の入れ物を指す。
    “袋儿”は“包儿”よりシンプルである。
    “袋儿”はたいてい素材一枚、或いは二枚合せで出来ている。

    また“包儿”のようなポケットや仕切りがない。

    “袋儿”もモノを入れるのであるから,その口には閉じるための簡単な仕掛けがよく施されている。
    “袋儿”には提げ手がついているものもあるが、例えば“购物袋儿” gwùdàir(買い物袋)など,提げ手がついていないものが多い。

    例)米袋儿” mǐdàir(米袋)、麻袋儿 mádàir(麻袋)、包装袋儿 bāozhuāngdàir(包装用袋)

    シンプルな袋状の入れ物だから,ショルダーストラップやベルトがついているものは殆どない。

    “兜儿”は柔らかい素材でものを取り囲んで包む物を表す。
    “袋儿”よりもっとシンプルで,基本的には一枚の布やネットである。
    一般的に口を閉める仕掛けがなく、口が開いたままである。
    “兜儿”は“包儿、袋儿”より、中のものの形にフィットさせて包むことにポイントをおいている。

    例)网兜儿 wǎngdōur(網袋)、肚兜儿 dùdōur (腹当)

    “兜儿”を使った語はあまり多くなく,現在“兜儿”と言えば一般的にポケットを指す。
    例えば“衣服兜儿” yīfudōur(服のポケット),“裤兜儿” kùdōur(ズボンのポケット)などである。

    “兜儿”は話し言葉でよく使われる。
    “袋儿”も“口袋儿”という場合はポケットを指す。
    例えば“衣服口袋儿” yīfu kǒudàir(服のポケット)などと言うが,“口袋儿”は“兜儿”よりやや硬いニュアンスで使用されている。

    (執筆:付 立華)

“见”jiàn、“见面”jiànmiàn、“见到”jiàn/dào(魯 暁琨)
  • “见/见面/见到”はいずれも「人に会う/面会する」の意味を表す。
    3つとも,会う対象に対する親しみや尊敬などの特別な気持は含まれておらず,初めて会う人にも親しい人に会う場合にも用いられ、また会う場所も自由である。

    しかし、それぞれ語用条件が異なり,文中でほとんど言い換えることができない。

    “见”は他動詞であり、会う対象を目的語にし、よく「“见”+対象」という形で使われる。たとえば、

    1)Zhèi cì huí guó tànqīn, wǒ xiǎng qù jiànjian lǎo tóngxué.
    这次回国探亲,我想去见见老同学。
    (今回の親戚訪問で帰国したら、昔の同級生に会いに行きたい。)

    2)Zuótiān wǒ jiànle Lǎo-Lǐ gěi wǒ jièshào de nèi ge nǚháir.
    昨天我见了老李给我介绍的那个女孩儿。
    (昨日私は李さんが紹介してくれた女の子に会った。)

    “见面”は“见”と違い、自動詞である。
    つまり、“见面”はそれ自身が<動詞+目的語>構造であり,後ろにさらに目的語を持つことができない。会う対象は前置詞“跟”によって導入される。

    3)*我见面她。
    4)我跟他见面。Wǒ gēn tā jiànmiàn.(私は彼に会う。)

    なお、“见面”は離合動詞であり、“见”と“面”が分離することがある。たとえば、

    5)Zuótiān wǒmen jǐ ge tóngxiāng zài Xīnsù jiànle yí miàn.
    昨天我们几个同乡在新宿见了一面。
    (昨日私たち同郷のもの数人で新宿で会った。)

    6)Wǒmen yǐqián jiànguo miàn.
    我们以前见过面。
    (私たちは以前会ったことがある。)

    ただし、6)は“我们以前见过。”と言ってもいい。

    最後に、“见”と“见到”の違いだが,“见到”も「“见到”+対象」というように目的語を取れるが, “见到”自身は「動作(见)+結果補語(到)」という構造であることによって、両者におのずと相違点が生じる。
    まず、肯定形“见了”と“见到”の意味上の区別をみてみよう。

    7)Jīntiān yì tiān wǒ jiànle sān ge péngyou.
    今天一天我见了三个朋友。
    (今日一日で三人の友達に会った。)

    8)Jīntiān yì tiān wǒ jiàndàole sān ge péngyou.
    今天一天我见到了三个朋友。
    (今日一日で三人の友達に会った。)

    7)8)の日本語の訳文は同じであるが、中国語としては、7)は会う予定があり、つまり、わざわざ会う機会を作ったのである。8)は会う約束がなく、偶然に会ったのである。
    次に、否定形“没见”と“没见到”の意味上の区別をみてみよう。

    9)Zhèi cì huí guó wǒ méi jiàn tā.
    这次回国我没见她。
    (今回帰国したときは彼女に会わなかった。)

    10)Zhèi cì huí guó wǒ méi jiàndào tā.
    这次回国我没见到她。
    (今回帰国したときは彼女に会っていなかった。)

    11)Zuótiān jìzhě lái cǎifǎng, zǒngjīnglǐ méi jiàn tā.
    昨天记者来采访,总经理没见他。
    (昨日記者は取材に来たが、社長は彼に会わなかった。)

    12)Zuótiān jìzhě lái cǎifǎng, zǒngjīnglǐ méi jiàndào tā.
    昨天记者来采访,总经理没见到他。
    (昨日記者は取材に来たが、社長は彼に会えなかった。)

    9)は仕手(私)が受け手(彼女)に会いたくないので、会う機会を作らなかったということに対し、10)は仕手(私)が受け手(彼女)と「会っていなかった」という事実を客観的に伝えているだけであり、11)は仕手(社長)が受け手(記者)に会いたくないので、わざと会う機会を作らなかったということに対し、12)はのっぴきならない事情で仕手(社長)が受け手(記者)に会えなかったという事実を伝えているだけである。

    以上の肯定形と否定形の比較を通して、“见”と“见到”の区別を以下のようにまとめられる。“见”という動作が実現するかどうかは仕手がコントロールすることができるに対し、“见到”という「動作+結果」が実現できるかどうかは仕手がコントロールすることができない。これは同じ構造の“买”と“买到”、“看”と“看到”、“吃” と“吃到”に適用できる。

    (執筆:魯 暁琨)

“怎么样”zěnmeyàng、“什么样”shénmeyàng(李 貞愛)
  • Ⅰ.どちらも名詞の前に置かれて連体修飾語を作り、名詞が表す人やものの性質について問う場合に使う。例えば、

    1)Nǐmen lǎobǎn dàodǐ shì {shénmeyàng/zěnmeyàng} de rén?
    你们老板到底是{什么样/怎么样}的人?
    (あなたの会社の社長はどんな/どういった人ですか?)

    Ⅱ.どちらも述語になれるが、意味上の違いが見られる。例えば下記2)と3)のように、Aに対して,それぞれBのような二通りの答えを想定してみる。

    2)Shìjiè guànjūn jiā shénmeyàng?
    A:世界冠军家什么样?
    (世界チャンピヨンの家はどんな家だった?)

    B1:Kètīng hěn shíshàng,wòshì、shūfáng yě hěn dà.
    客厅很时尚,卧室、书房也很大。
    (応接間は時代の気風に漂っていて、寝室と書斎も広いよ。)

    B2:Wǒ juéde tǐng búcuò de.
    我觉得挺不错的。
    (なかなかいい家だと思うよ。)

    3)Shìjiè guànjūn jiā zěnmeyàng?
    A:世界冠军家怎么样?
    (世界チャンピョンの家はどうだった?)
    B1:客厅很时尚,卧室、书房也很大。

    B2:Wǒ juéde tǐng búcuò de.
    我觉得挺不错的。
    (なかなかいい家だと思うよ。)

    “什么样”shénmeyàngに対する答えは、「家」の具体的な様子についての描写は自然であるが、話者の感想を述べるのは答えとして不自然である。しかし、“怎么样”zěnmeyàngに対する答えは“什么样”shénmeyàngより自由である。
    この意味上の違いにより、主語になる名詞成分の選択にはある制限が見られる。

    4)Míngtiān zěnmeyàng?
    A:明天怎么样? (什么样×)
    (明日はいかがですか?)

    B:Míngtiān wǒ yǒu kòng.
    明天我有空。
    (明日は時間がありますよ。)

    5)Zhè běn xiǎoshuō zěnmeyàng?
    A:这本小说怎么样? (什么样×)
    (この小説はどうですか?)

    Tǐng yǒu yìsi de.
    B:挺有意思的。
    (なかなか面白いですよ。)

    4)は「明日」について相手の意向を問うものであり、5)は「小説」について相手の評価を尋ねるものであるため、いずれも“什么样”は使えない。さらに次のような場合、“什么样”shénmeyàngは使われない。

    Ⅲ.動詞の前に置き、動作や行為の方法について問う場合。

    6)Shànghǎi dàzháxiè yīnggāi zěnmeyàng chī?
    上海大闸蟹应该怎么样吃? (什么样×)
    (上海カニはどのように食べますか?)

    Ⅳ.動詞の後ろに置き、具体的状況や状態について問う場合。

    Nà jiàn shì jinxing de zěnmeyàng le?
    7)那件事进行得怎么样了? (什么样×)
    (あの件はどうなっていますか?)

    Ⅴ.“怎么样”は単独で文をなすことができ、第一発話に現れることができる。

    8)Zěnmeyàng? Zuìjìn gōngzuò hái tǐng shunlì ba?
    怎么样?最近工作还挺顺利吧? ( 什么样×)
    (どうですか。最近仕事のほうは順調でしょう?)

    9)Zěnmeyàng? Wǒ xiàng ge gēshǒu ba?
    怎么样? 我像个歌手吧?( 什么样×)
    (どう?歌手みたいでしょう。)

    (執筆:李 貞愛)

“懂”dǒng、“知道”zhīdao(芳沢 ひろ子)
  • “懂”は道理など物事の本質や全体像がわかる。程度は深い。“知道”は知識や情報など物事の表層的な部分を知っている。程度は浅い。

    1)Jīngguò zhè jiàn shì,wo dǒng(×zhīdao)le ài.
    经过这件事,我懂(×知道)了爱。
    (このことを通して愛というものがわかった。)

    2)Wǒ cái zhīdao(×dǒng)le shénme jiào wǎngluò.
    我才知道(×懂)了什么叫网络。
    (どういうものをネットというのかやっとわかった。)

    3)Shénme shì yǒuqíng,nǐ dǒng(zhīdao)ma?
    什么是友情,你懂(知道)吗?
    (友情とは何か君はわかるかい?)

    この例はどちらも使えるが「わかる」対象としては、“懂”の場合「友情」の本質的、哲学的、人生論的な意味を指し、“知道”では「友情」に関する表層的な知識、つまり「友情」という言葉の辞書的な意味を指す。

    Guójiā gànbù bìxū dǒng(zhīdao) zhèngcè.
    4)国家干部必须懂(知道)政策。
    (中央政府官僚は政策というものがわかっていなくてはならない。)

    これもどちらも使えるが、“懂”を使うとわかっているべき政策の中身は本質的で深いものとなり、“知道”の場合は政策に関する知識、情報など表層的なものになる。
    このようにある事柄が本質的な意味と表層的な情報の二つの面を持つ時、“懂”と“知道”の両方が使えるが上記のようにニュアンスは異なってくる。

    5)Wǒ dǒng(×zhīdao) shìjièyǔ.
    我懂(×知道)世界语。
    (私はエスペラント語がわかる。)

    ある外国語がわかるとはその言葉の世界を全体として把握しているということで単なる情報ではない。したがって“知道”は使えない。

    6)Wǒ zhīdao(×dǒng) shìjièshang cúnzài shìjièyǔ.
    我知道(×懂)世界上存在世界语。
    (この世にエスペラント語というものが存在していることを私は知っている。)

    「私」が知っているのは「この世にエスペラント語が存在している」という知識ないし情報。したがってこれは“知道”の世界であり“懂”は使えない。

    7)Sì jiǎn sān děngyú jǐ,zhīdao(×dǒng)ma?
    4减3等于几,知道(×懂)吗?
    (4引く3はいくつか知っていますか?)

    4-3がいくつになるかは一つの知識。したがってこれは“知道”の世界であり“懂”の世界ではない。よく先生が何かをひとしきり児童に説明し、最後に「みなさん、(私の説明が)わかりましたか?」と聞く時は普通以下のように言う。

    8)Tóngxuémen tīngdǒngle ma?
    同学们听懂了吗?

    *9)Tóngxuémen zhīdaole ma?
    同学们知道了吗?

    先生の説明は単なる情報や知識ではないのでここで“知道”は使えないのである。また8)のように “懂”は補語にもなれるが“知道”は補語としては用いない。

    (執筆:芳沢ひろ子)

“夫妇”fūfù、“夫妻”fūqī(塚越 千史)
  • 日本語では「私たち夫婦」は言えても、「私たち夫妻」は言いにくい。「夫妻」という言葉に、尊敬の気持ちと客観的なニュアンスが含まれていると考えられるからだ。しかし中国語では、“夫妇”と“夫妻”は、自称にも他称にも、書面語にも口語にも、ほぼ同様に用いることができる。

    ○“我们夫妇” wǒmen fūfù
    ○“我们夫妻” wǒmen fūqī
    ○“李老师夫妇” Lǐ lǎoshī fūfù
    ○“李老师夫妻” Lǐ lǎoshī fūqī
    ○“夫妻俩” fūqī liǎ
    ○“夫妇俩” fūfù liǎ

    ただし、熟語として固定した言い方については、互換性はない。

    ○“夫唱妇随” fū chàng fù suí
    ד夫唱妻随” fū chàng qī suí

    ○“夫妻店” fūqīdiàn(夫婦二人で経営する小さな店)
    ד夫妇店” fūfùdiàn

    ○“夫妻肺片” fūqī fèipiàn(牛の内臓などで作る四川料理の冷菜)
    ד夫妇肺片” fūfù fèipiàn

    一方、“小两口” xiǎoliǎngkǒu(若夫婦)と“老两口” lǎoliǎngkǒu(老夫婦)は、主に口語で用いられる気軽な言い方である。

    (執筆:塚越千史)

“柔和”róuhé、“温柔”wēnróu(保坂 律子)
  • “柔和”róuhé と“温柔” wēnróu はいずれも「優しい、穏やかだ」という意味を持つ。
    人の声や表情、態度などについて「優しい、穏やかである」という場合、同じように使うことができる。

    1)Tā shuōhuà de yǔdiào fēicháng( róuhé / wēnróu), dànshì tàidù què hěn jiānjué.
    她说话的语调非常(柔和/温柔),但是态度却很坚决。
    (彼女の口調はとてもソフトだが、態度は毅然としている。)

    2)Māma yòng( róuhé / wēnróu) de mùguāng kàn zhe wǒ.
    妈妈用(柔和/温柔)的目光看着我。
    (お母さんは優しい眼差しで私を見ている。)

    3)Tā( róuhé / wēnróu) dì quàn tā tīng dàjiā de yìjiàn.
    她(柔和/温柔)地劝他听大家的意见。
    (彼女は彼にみんなの意見を聞くように優しく言って聞かせる。)

    “柔和”と“温柔”はともに「優しい、穏やかである」と日本語訳されるが、“温柔”は「人が情愛を持っていて優しい」ことに重点があり、“柔和”は人に限らず「激しくなく、穏やかである」、「人に心地よいと感じさせる」ことに重点がある。人に関して“柔和”が使えるのは、人そのものではなく、(1)~(3)のように口調や眼差し、態度などを修飾する場合に限られる。「優しい人」「穏やかな人」のように人自身が「優しい」という場合には(4)~(7)のように“温柔”を使い、“柔和”は使えない。

    4)Tā duì qīzǐ hěn( wēnróu /* róuhé).
    他对妻子很(温柔/*柔和)。
    (彼は奥さんにとても優しい。)

    5)(wēnróu /* róuhé) de mǔqīn zuì měi).
    (温柔/*柔和)的母亲最美。
    (優しい母親が一番素晴らしい。)

    6)(wēnróu /* róuhé) de rén bú huì pèngshāng rén, yě bù róngyì bèi rén pèngshāng.
    (温柔/*柔和)的人不会碰伤人,也不容易被人碰伤。

    7)Tā xiǎngyào zhǎo( wēnróu /* róuhé) de rén jiéhūn.
    她想要找(温柔/*柔和)的人结婚。
    (彼女は優しい人を見つけて結婚したがっている。)

    一方、人ではないモノが「穏やかである」、「心地よく感じさせて優しい」という場合には“柔和”を使い、“温柔”は使えない。

    8)(róuhé /* wēnróu) de lǜsè
    (柔和/*温柔)的绿色
    (柔らかな感じの緑色)

    9)(róuhé /* wēnróu) de gālí fēngwèi
    (柔和/*温柔)的咖喱风味
    (マイルドなカレー風味)

    10)(róuhé /* wēnróu) fáng shài lù
    (柔和/*温柔)防晒露
    (マイルド日焼け止めローション)

    11)Pāishè( róuhé /* wēnróu) xiàoguǒ de zhàopiàn
    拍摄(柔和/*温柔)效果的照片
    (ソフト効果の写真を撮影する)

    人以外のモノでも「優しい心を持つ」と見立てが可能であれば、“温柔”も使うことができる。

    12)guāngxiàn( róuhé / wēnróu)
    光线(柔和/温柔)
    (光線が優しい)

    13)(róuhé / wēnróu) de chūnfēng
    (柔和/温柔)的春风
    (優しい春風)

    14)dōngtiān( róuhé / wēnróu) de yángguāng
    冬天(柔和/温柔)的阳光
    (冬の穏やかな陽光)

    しかし(12)~(14)で“柔和”を用いた場合には、光線や春風、陽光が「(強烈ではなくて)穏やかである」というニュアンスであるのに対し、“温柔”を用いた場合には、光線や春風、陽光が「(慈母のように)優しい」というニュアンスになるという違いがある。
    “温柔”は、よく辞書に「女性の優しさについて言うことが多い」と記されているが、男性に対しても言うことができる。

    15)wēnróu de zhàngfu
    温柔的丈夫
    (優しい夫)

    16)Tā tūrán duì qīzǐ biànde wēnróu qǐlái.
    他突然对妻子变得温柔起来。
    (彼は急に妻に対して優しくなった。)

    “柔和”は形のあるモノが「柔らかい」という意味を持つ。“温柔”にはこの用法はない。

    17)shǒugǎn( róuhé /* wēnróu)
    手感(柔和/*温柔)。
    (手触りが柔らかい。)

    18)Zhè kuài bùliào mō qǐlái gǎnjué hěn( róuhé /* wēnróu)
    这块布料摸起来感觉很(柔和/*温柔)。
    (この布地は触ってみるととても柔らかい。)

    (執筆:保坂 律子)

“不谢”bù xiè、“不客气”bú kèqì(森中 野枝)
  • “谢谢” xièxieとお礼を言われたらなんと返しますか。「どういたしまして」にあたる中国語は“不谢”“不客气”“没事儿” méi shìr “哪里哪里” nǎlǐ nǎlǐ “哪儿的话” nǎr de huàとバリエーション豊かですが、今回はその中でも中国語を勉強するとまず初めに習う“不谢”“不客气”の二つを取り上げて違いを考えてみましょう。

    “不谢”“不客气”の“不” bùは、どちらも“不用” bú yòng (~する必要はない)のこと。“不谢”は“不用谢” bú yòng Xiè「感謝する必要はない=礼には及ばない」。“不客气”の“客气”は「遠慮をする」、“不用客气” bú yòng kèqìは「遠慮する必要はない」という意味。“不用谢”“不用客气”と言うこともあります。“不谢”は“谢谢”と言われ、軽く「どういたしまして」と返す時に使われます。先行文に“谢谢”がない場合“不谢”は用いません。

    1)Jīntiān yòu ràng nǐ pòfèi le).
    A:今天又让你破费了。
    (今日はまたごちそうになってしまったね。)

    B:不客气(*不谢)。

    2)Nǐ kě bāng le wǒ de dàmáng le).
    A:你可帮了我的大忙了。
    (おかげで助かりました。)

    B:Bú kèqì , Xiàcì yǒu shì zài zhǎo wǒ).
    不客气(*音仍), 下次有事再找我。
    (どういたしまして。また何かあったら私に聞いてください。)

    3)Shīfu , máfan nǐ le.
    A:师傅,麻烦你了。
    (どうもご面倒をおかけしました。)

    B:不客气(*不谢)。

    “感谢”を用いたお礼にも“不谢”を用いることはできません。

    4)Fēicháng gǎnxiè
    A:非常感谢。
    (非常に感謝しています。)

    B:不客气(*不谢)。

    5)Gǎnxiè nǐ tèyì lái sòngxíng.
    A:感谢你特意来送行。
    (わざわざお見送りありがとうございます。)

    B:不客气(*不谢)。

    6)Bù zhīdào zěnme gǎnxiè nǐ cái hǎo.
    A:不知道怎么感谢你才好。
    (なんとお礼を申し上げてよいのやら。)

    B:不客气(*不谢)。

    一方、“不客气”は“不谢”よりフォーマルで、“谢谢”の先行があってもなくても“不客气”で受けることができます。目上の人からお礼を言われた場合、“不谢”で返答するとややぞんざいな感じがします。

    7)(先生が生徒に向かって)
    A:Xièxie , nǐ bāng le wǒ de dàmáng.
    谢谢,你帮了我的大忙。
    (ありがとう。おかげで助かったよ。)

    B:不谢。
    (どういたしまして)

    軽い応答の“不谢”は、繰り返して使われることが多いようです。

    8)xièxie
    A:谢谢。
    (ありがとう。)

    B:Bù Xiè bù Xiè.
    不谢,不谢。
    (どういたしまして。)

    参考:「あ、知ってる中国語 ―常用文ファイル50―」相原茂著

    (執筆:森中 野枝)

“现在”xiànzài、“目前”mùqián、“如今”rújīn(戸沼 市子)
  • 「今,現在」を表す時間詞の中で,最も使用頻度の高い“现在”のほかに,やはりかなりの頻度で用いられる語に“目前”“如今”がある。この3語の使い分けを考えてみる。

    “现在”: 過去,未来と区別して「今,現在」
    最も典型的には,今何時かと時刻を問題にする場合の“现在”は“目前”や“如今”で置き換えることはできない。例えば次の例1),約束の時刻に遅れて駆けつけて来たような場合。

    1)Duìbuqǐ,xiànzài jǐ diǎn le ?
    A:对不起,现在几点了? (×目前 ×如今)
    (ごめん,今何時になった?)

    B:Nǐ zěnme xiànzài cái lái?
    你怎么现在才来?(×目前 ×如今)
    (今ごろやっと来て,どうしたんだ?)

    しかし,次の例2)3)のような場合,“目前”“如今”のいずれでも置き換えが可能である。

    2)Xiànzài wùjià fēizhǎng yì jīn qīngcài liǎng kuài!
    现在物价飞涨1斤青菜2块! (目前/如今)
    (今は物価急騰で,葉もの1斤が2元!)

    3)Xiànzài niánqīngrén sīxiǎng hěn huóyuè,wǒ gǎndào hěn xiànmù.
    现在年轻人思想很活跃,我感到很羡慕。(目前/如今)
    (今の若者は考えが活き活きと前向きで,羨ましいねェ。)

    この言い換えが可能であるのはなぜかを考えるに当たって,ここではまず“现在”とは何を言うのかを見ておく。
    《现代汉语词典》(第5版)の語義には「発話時のその時を指し,ときには発話前後の長短一定の時間帯を含む(「過去」と「未来」から区別する)」と記されている。

    つまり,時刻を言う時には“现在”しか使えないことからも分かるように,現在とはその一瞬しかありえず,この瞬時は即過去となり即未来に移行する。しかしその一瞬の軸を跨いだ前後を含めて,これを「今,現在」として設定しておかなければ,我々の置かれている時空に現に生起している事象を言い表すのには具合がわるい。

    “现在”を用いる時,発話者は上図底辺の時間帯内に生起する事象を,底辺の外側にはみ出す過去と未来から区別して言い表すものといえよう。その視界の広がりは“现在”と設定した底辺の範囲内に止まる。

    “现在”が上のように設定されているものとすれば,“现在”は未来も表すとよくいわれるが,次の4)5)はともに助動詞“想”“要”を伴って底辺内の未来部分に踏み込んだ“现在”であり,6)は“现在”のみで未来部分に踏み込んでいるタイプである。そして7)は底辺内の過去部分をも含み込んだ“现在”であると考えられよう。

    4)Wǒ xiànzài xiǎng shuōyishuo tā fēng fù duō cǎi de jīnglì.
    我现在想说一说他丰富多彩的经历。(×目前 ×如今)
    (これから彼の多彩な経歴について少しお話しようと思います。)

    5)Zhōngguó dòngmàn chǎnyè xiànzài yào zuànjǐn quántou,dǎchu jǐ geshǎnliàng de zhāopái.
    中国动漫产业现在要攥紧拳头,打出几个闪亮的招牌。(×目前 ×如今)
    (中国のアニメ産業は今から気合を入れて,パッとしたブランドイメージ作を何本か打ち揚げるのだ。)

    6)Tóngxuémen qǐng zhùyì,xiànzài shàngkè.(×目前 ×如今)
    同学们请注意,现在上课。
    (みなさん,それでは,これから授業を始めます。)

    7)Xiànzài wǒ zài Běijīng xuéxí Hànyǔ.
    现在我在北京学习汉语。(目前 如今)
    (いま私は北京で中国語を学んでいます。)

    “目前”:先行き不透明ながら「今のところ」「このところ」
    “目前”は文字通り「目の前」で,目の前の範囲,目の前のところに現れている事実や現象,事象を言う「今」である。次の2例でいえば,

    8)Mùqián,shìjiè shang zhǐ fāxiàn 5 lì yuánshǐ niǎolèi de huàshí.
    目前,世界上只发现5例原始鸟类的化石。(现在 ×如今)
    (今のところ,原始鳥類の化石は世界でわずか5例だけしか発見されていない。)

    9)Nánjízhōu shì mùqián wéiyī méiyou chángzhù jūmín de dàzhōu.
    南极洲是目前惟一没有常住居民的大洲。(现在/×如今)
    (南極大陸は今のところ常住の居住者のいない唯一の大陸である。)

    例えば8)は「(将来的には今後さらなる発見の可能性があるかも知れないが)今のところまででは・・・」であり,9)は「(科学技術の進歩や気候変動などで遠い将来はわからないが)今のところまででは・・・」ということであり,“目前”の視界の広がりは意識下に上図底辺からはみ出した未来,未知の領域にまで達しているものといえよう。
    なお,“目前”は「目の前のところまでで言えば~である」ということで,このところという場所,空間が時間表現に転化したものと考えられる。日本語で「今のところ/このところ」と言い換え得るのも示唆的である。

    以下10)~12)の例文からも,上記“目前”の特性が見て取れるであろう。

    10)Zài mùqián de jīngjì xíngshì xià,hé zhǒng lǐcái bǐjiào shìhé wǒmen?
    在目前的经济形势下,何种理财比较适合我们? (现在/如今)
    (このところの経済状況では,どんな資産運用が我々に合っているのだろうか?)

    11)Rénlèi mùqián zhèng miànlín sān dà kùnjìng:rénkǒu bàozhà、huángjìng wūrǎn、zīyuán kūjié.
    人类目前正面临三大困境:人口爆炸、环境污染、资源枯竭。(现在/如今)
    (人類はこのところ三大難局―人口爆発,環境汚染,資源の枯渇―に直面している。)

    12)Mùqián,wǒmen zhèr de lǚyóu zǒng shōurù yǐ zhàn běnshěng GDP de bǎi fēnzhī qī diǎn bā.
    目前,我们这儿的旅游总收入已占本省GDP的7.8%。(现在/如今)
    (今のところ,ここの観光による総収入はすでに本省GDPの7.8%を占めている。)

    “如今”:以前とは様変わりして「今では」「今や」
    発話者は過去を振り返り,その過去のありさまとの違い,比較によって「そして今では」「それなのに今や」と現在の様相を捉える。視界の広がりは上図底辺をはみ出した過去にまで及んでおり,そこから今の変化を捉え言い表す。
    “如今”は以前の様相を意識下に, “目前”は未知の先行きを意識下に,この2語はいわば背中合わせの向きで今を捉え言い表す表裏の関係にある語といえる。
    なお,『岩波中国語辞典』(倉石武四郎著)には“如今”の語義として「今,この頃(多少の感慨をこめて)」と記されている。( )内の付記「多少の感慨をこめて」,これは“如今”の語感をまさに言い得たものといえよう。

    13)Tā shuō de nà liǎng wèi,dōu shì rújīn zài yǐngtán shang dà míng dǐngdǐng de dǎoyǎn.
    他说的那两位,都是如今在影坛上大名鼎鼎的导演。(现在/目前)
    (彼の言っていたあの二人は,どちらも今や映画界の名声赫々たる監督だ。)

    14)Rújīn de niánqīngrén jiéhūn yuè lái yuè wǎn le.
    如今的年轻人结婚越来越晚了。 (现在/目前)
    (今時の若者は結婚するのがますます遅くなってきている。)

    15)Mín chuán yǎng’ér fánglǎo rújīn yǎng’ér qìfù.
    民传养儿防老如今养儿弃父。(现在/目前)
    (子を養うは老いの備え,と言い伝えられてきたものだが,今では子を養って親が捨てられるってわけだ。)

    16)Shì dào rújīn,yǐjīng shì qí hǔ nán xià le.
    事到如今,已经是骑虎难下了。(现在/×目前)
    (もうこうなっては,今さら引くに引けず突っ走るしかない。)

    以上をまとめると,一瞬の時を示す基軸を中心として,時間的な前(過去)と後(未来)にある程度の時間幅を取り,その幅全体,つまりその時間帯を“现在”と設定する。この時間帯に生起する様々な事象を言い表す場合, “现在”“目前”“如今”3語のいずれで言い表すかは,発話者の視界の到達範囲を何処に置くかによって使い分けがなされるものといえる。
    また,“目前”“如今”の例文の多くが“现在”で言い換え可能であるように, 「今」を言い表す場合“现在”の使用頻度が最も高く,“现在”は汎用性のある語である。 一方,“现在”とは異なり,“如今”は時の経過にともなって生じた変容に対する多少の感慨を, “目前”は時の推移による未知の変容への微かな予感を,それぞれ含み持って「今ここまでのところ」を言い表す語であるといえよう。

    (執筆:戸沼 市子)

“头脑”tóunǎo、“脑筋”nǎojīn(李 貞愛)
  • Ⅰ.“头脑” tóunǎoも“脑筋” nǎojīnも「頭」、「頭脳」と訳されることが多い。

    1)Nǐ zěnme zhème méiyǒu tóunǎo?
    你怎么这么没有头脑?
    (あなたはなぜこんなにも頭を使わないのですか。)

    2)Yùndòngyuán bùjǐn yào yǒu liánghǎo de tǐlì,érqiě yào tóunǎo qīngxǐng.
    运动员不仅需要有良好的体力,而且要头脑清醒。
    (スポーツ選手は優れた体力が必要なだけではなく、頭脳も明晰でなければなりません。)

    3.Tāmen lèguān、kāilǎng、ài dòng nǎojīn.
    他们乐观、开朗,爱动脑筋。
    (彼らは楽観的で明るく、頭をよく働かせます。)

    4)zhège háizi nǎojīn tèbié hǎo.
    这个孩子脑筋特别好。
    (この子は頭がよく切れます。)

    Ⅱ.しかし“头脑” tóunǎoと“脑筋” nǎojīnは、それぞれ「頭」「頭脳」の異なる側面を指す。

    1.“头脑” tóunǎoは一般的に、人間が備えている、物事を見分ける力、的確に判断する力を指す。いわゆる「脳の思考力」の意味合いが強い。

    5)Tā zhège rén hěn yǒu tóunǎo.
    他这个人很有头脑。(脑筋×)
    (彼はちゃんと考えを持っている人です。)

    6)Búyào bèi jīntiān de chénggōng chōnghūn tóunǎo.
    不要被今天的成功冲昏头脑。(脑筋×)
    (今日の成功にのぼせ上がるな。)

    7)Wǒmen yào shíshíkèkè wǔzhuāng tóunǎo.
    我们要时时刻刻武装头脑。 (脑筋×)
    (私たちは常に思考力を鍛えておかないといけません。)

    5)は、「思考力、判断力をもっている」を意味し、6)は、「思考力、判断力が乱れる」を意味する。7)は「思考力、判断力をつける」という意味である。

    2.一方“脑筋” nǎojīnは「脳の思考力」を指すというより、動かす対象としての「脳」の意味合いが強い。したがって、組み合わされる動詞も“动”dòng、“伤”shāng、“费”fèi、“换”huànのように、「使う、費やす,取り替える」といった意味を持つものが多い。

    8)Qǐng dàjiā yìqǐ dòngdong nǎojīn.
    请大家一起动动脑筋。 (头脑×)
    (みなさん、一緒に考えてみてください。)

    9)Zhè jiàn shìqing zhēn ràng wǒ shāngtòu nǎojīn.
    这件事情真让我伤透脑筋。(头脑??)
    (この件は本当に頭を悩ませます。)

    10)Bié fèi nǎojīn le,méiyou yòng.
    别费脑筋了,没有用。 (头脑??)
    (これ以上頭を使わないでください。無駄です。)

    11)Shídài bù tóng le,nǐ yě gāi huànhuan nǎojīn le.
    时代不同了,你也该换换脑筋了。 (头脑×)
    (時代は変りましたよ。あなたもそろそろ頭を切り替えないといけませんよ。)

    Ⅲ.“头脑” tóunǎoは「見分ける力、判断する力」を指すため、「すばやい、回転が速い」といった意味の形容詞をとることができる。しかし“脑筋” nǎojīnは、こういった形容詞はとりにくい。

    12)Tā bùjǐn tóunǎo fēicháng mǐnjié,érqiě zuòshì yě fēicháng chénwěn.
    他不仅头脑非常敏捷,而且做事也非常沉稳。(脑筋×)
    (彼は頭の回転がとても速いだけではなく、仕事ぶりも非常に冷静沈着です。)

    13)Nǐ yào xiǎoxīn yìdiǎn,tā tóunǎo jīngmíngde hěn.
    你要小心一点,他头脑精明得很。(脑筋×)
    (気をつけたほうがいいよ,彼は頭がとても切れるから。)

    Ⅳ.“头脑” tóunǎoはまた “商业”shāngyè,“经济” jīngjìなどの名詞と組み合わさり,特定の分野において見分ける力、特定の分野における思考力を指すことができる。このような場合、“脑筋” nǎojīnはあまり使わない。

    14)Wǒ zhège rén méiyǒu shénme shāngyè tóunǎo,zuòbuliǎo shēngyi.
    我这个人没有什么商业头脑,做不了生意。(脑筋??)
    (私はビジネス方面に頭が働かないので、商売なんてできません。)

    15)Cóngxiǎo péiyǎng háizimen de jīngjì tóunǎo shìfǒu zhèngquè?
    从小培养孩子们的经济头脑是否正确? (脑筋×)
    (小さい頃から子供たちの経済脳を育てることは正しいでしょうか。)

    “商业头脑” shāngyè tóunǎoは、市場を見る洞察力と市場発展方向を的確に判断できる力を指し、“经济头脑” jīngjì tóunǎoは、経済的観念を指す。

    Ⅴ.“头脑” tóunǎoは“摸不着头脑”mōbuzháo tóunǎoという慣用句において「手がかり、見当」の意味を持つ。

    16)Tā de suǒzuòsuǒwéi zǒng ràng rén mōbuzháo tóunǎo.
    她的所作所为总让人摸不着头脑。(脑筋×)
    (彼女の言うことなすことはいつも見当がつきません。)

    (執筆者:李 貞愛)

“吃茶”chī chá、“喝茶”hē chá、“饮茶”yǐnchá(飯田 敦子)
  • “喝茶”“饮茶”“吃茶” はどれも「茶を飲む」という意味を持つが,現代語においては,広く一般的に使われているのは“喝茶”である。
    “饮茶”は書面語で文語的表現として使われ,また一方で日本語でも「ヤムチャ」と呼ばれるように,中国の南方(広東や香港方面)の習慣で茶を飲みながら点心を食べることも指す。

    1)Zhōngguórén yǐnchá yǐ yǒu shùqiān nián de lìshǐ.
    中国人饮茶已有数千年的历史。
    (中国人の喫茶にはすでに数千年の歴史がある。)

    2)Zhōngguó gè shǎoshù mínzú de yǐnchá fāngfǎ yě bù yíyàng.
    中国各少数民族的饮茶方法也不一样。
    (中国の各少数民族のお茶の飲み方も同一ではない。)

    3)Zhōngguó de yǐnchá fēngsú jí zhì chá jìshù,shì suízhe Zhōngwài wénhuà jiāoliú hé shāngyè màoyì de kāizhǎn ér chuánxiàng quán shìjìè de.
    中国的饮茶风俗及制茶技术,是随着中外文化交流和商业贸易的开展而传向全世界的。
    (中国の喫茶の風習や製茶の技術は,中国と外国との文化交流と商業貿易の発展につれて全世界に広く伝わっていった。)

    このような場合,“饮茶”は多く書面語として所謂「茶を飲む,喫茶」の意味で使われており,「ヤムチャ」の意味ではない。「茶を飲む」の意味の“饮茶”は次のような形で“饮”が動詞として単独で用いられることは殆どない。

    4)Hēle chá zhīhòu yào gé duō jiǔ kěyǐ chī yào?
    喝了茶之后要隔多久可以吃药? (×饮)
    (お茶を飲んでからどのくらいの時間がたてば薬が飲めますか?)

    5)Zhè zhǒng chá xiǎoháizi bù néng hē?
    这种茶小孩子不能喝。 (×饮)
    (このお茶は子供は飲めません。)

    6)Zhè shì Zhōngguó hóngchá zhōng zuì hǎohē de chá.
    这是中国红茶中最好喝的茶。 (×饮)
    (これは中国の紅茶の中で一番美味しいお茶です。)

    “饮”には「飲み物,飲料」を意味する名詞性形態素としての用法もあり,“茶饮”(お茶の飲料)“冷饮”lěngyǐn(冷たい飲み物)という言葉もある。

    茶請けも中国の北と南では趣きが異なっており,一般に北では“点心”diǎnxinも甘いお菓子系(月餅,ゴマ団子,あんまん等)のものが中心である。“饮茶”がヤムチャの意味として使われる場合は,点心の存在が大きな比重を占める。南,特に広東では茶請けというより,朝食を茶を飲みつつ,家族や親しい友人と語らいながらとるという感じで,勢い海老餃子,焼売,春巻き,果ては焼きそばや,おかゆなどという物もでてくる。こうなると他のデザートも豊富で,マンゴープリンや亀ゼリーといったものまである。最近では新しいメニューも増え,また冷凍食品が流通し海鮮物などを使った南の点心が北でも食べられるようになってきた。

    7)Guǎngzhōu de yǐnchá bù kě quēshǎo diǎnxin.
    广州的饮茶不可缺少点心。
    (広州のヤムチャには点心が欠かせない。)

    8)Shàng cháguǎn qù chī zǎochá.
    上茶馆去吃早茶。
    (茶館に行って朝の茶を飲む=朝食をとる。)

    ヤムチャは朝昼晩あるが,朝のヤムチャは特に盛んで,茶館で“吃早茶”chī zǎochá(朝の茶を飲む)と言えば,お茶を飲みつつ数種の点心を食べることである。“吃早点”chī zǎodiǎn(朝の軽い食事をとる)と似た意味を持つが,インスタントにササッと済ませるのではなく,茶館で茶と点心を味わいながらゆったりとお喋りや商談などをして,人々の交際の一つのかたちにもなっている。
    “吃茶”は口語では華中・華南の地域(上海,南昌,福州など)の方言で「茶を飲む」の意味で使われているが,茶の湯を飲んだ後に茶殻も食べる,地域によっては茶館などで点心を食べながらお茶を飲む,さらに茶葉そのものを食用にして料理して食べる意味にも用いられている。文語表現では“吃茶去”chī chá qù(「喫茶去」きっさこ:禅語,お茶を召し上がれの意,日常即仏法を表す)が有名である。

    9)Yǒu de rén shuō chīchá bǐ hē chá gèng hǎo.
    有的人说吃茶比喝茶更好。
    (ある人は茶を食べることは茶を飲むことよりさらに良いと言っている。)

    “吃”の文字は異体字として“喫”が示されており,日本でも「喫茶」と言えば茶を飲むことであり,「喫茶店」はお茶や珈琲などを出す店である。だが古代中国語では,“吃”と“喫”とはもともと読み方も意味も違い,“吃”は,旧読ではjīと発音し,「どもる,どもり」の意味で,この意味の場合には“喫”の字を当てることはない。

    一方“喫”は本来「食べる」「飲む」「すう」「受ける」などの意味を持ち,“吃”の字を用いることはなかった。しかし次第に混用されるようになり,画数が少ない“吃”の方が優勢になり,近代以降“喫”が簡体化して“吃”と表記されるようになったという。

    茶は当初は飲料としてではなく,薬として扱われ,生の茶葉を咀嚼することから始まり,これを煎じて飲むようになった。それ故最も早い時期に出てきたのは“吃茶”であるといわれている。「薬(水薬以外)を飲む」も中国語では“吃药”chī yàoである。

    “喝茶”は茶を煎じた汁を口にしてから飲み込むまでの動作を指し,広く使われるようになった。茶は次第に薬から飲用のものとされ“饮茶”(茶を飲む)は熱湯を茶葉に注いで蒸らした所謂茶の湯を飲むことを意味し,“喝茶”よりも文人的文語的表現となっている。“饮茶”の上にはさらに,“品茶”pǐn cháという表現があり,この段階になると茶を飲むという行為よりも,茶をじっくり賞味するということへ重点が置かれ,意味や概念も豊かで深いものになってくる。

    10)Chuò wūlóng, pǐn lóngjǐng, chī zǎochá, hē dàwǎnchá.
    啜乌龙、品龙井、吃早茶、喝大碗茶。
    (ウーロン茶をすすり,ロンジン茶を味わい,(茶と点心の)朝食をとり,大きな湯飲み茶碗でお茶を飲む)

    これは漢民族の代表的な茶の飲み方を表したものである。この場合の“吃早茶”は, 先にも述べた通り、朝の茶を飲みつつ点心の朝食をとることである。
    “吃茶”“喝茶”“饮茶”さらに“品茶”と茶を飲む表現はいろいろあり,その嗜み方も多様化している。日本では茶道が生まれ芸術的にも大変奥深い世界を形成した。
    また最近の健康志向から中国では,茶を利用した料理“茶膳”cháshànも新たなメニューが考案され,“吃茶”の世界も活気を呈している。こうした言葉の意味のおおもとを探っていくと,茶の歴史や地域の文化に様々な特色も見られ,日本語との関係も考えさせられ興味深いものがある。

    (執筆:飯田 敦子)

    :主な参考文献
    『品茶説茶 生活的芸術人生的享受』(中国博物館漫歩) 浙江人民美術出版社 1999年
    『中国古代的飲茶与茶館』(中国古代生活叢書)劉修明  商務印書館国際有限公司 1995年
    『浮梁茶葉宝鑑』浮梁県老科学技術工作者協会編  西人民出版社 2005年
    『中日飲食文化比較研究』贾蕙萱 北京大学出版社 1999年
    『アジアの茶文化研究』(アジア遊学88)勉誠出版 2006年
    『中国茶と茶館の旅』(とんぼの本)平野久美子他 新潮社 2004年 など

“开拓 ”kāituò、“开辟”kāipì(川名 理惠)
  • “开拓”、“开辟”は、動詞として、共に「開拓する、切り開く」という意味をもつ。

    1.共に“新途径”、“新天地”、“新局面“、“市场”、“前景”、“道路”、“通道”などが目的語となることが多い。

    1)Wǒmen gōngsī yǔ dōngběi qǐyè jìnxíng hézī yǔ hézuò, lìyòng nàli yuán yǒu de xiónghòu de wùzhì jīchǔ, kāituò( /kāipì) xīn de tiāndì.
    我们公司与东北企业进行合资与合作,利用那里原有的雄厚的物质基础,开拓(开辟)新的天地。
    (我々の会社は、東北企業と共同出資し提携して、そこに元からある豊富な物質的土台を利用し、新しい世界を切り開く。)

    2)Zhōngguó gǎigé kāifàng hé xiàndàihuà jiànshè búduàn kāituò (/ kāipì) xīn júmiàn.
    中国改革开放和现代化建设不断开拓(开辟)新局面。
    中国の改革開放と現代化建設は絶え間なく新局面を切り開く。

    3)Xīlākè gǔlì Fǎguó zhōng-xiǎo qǐyè kāituò (/ kāipì) Zhōngguó shìchǎng.
    希拉克鼓励法国中小企业开拓(开辟)中国市场。
    (シラク大統領、フランスの中小企業に中国市場を開拓するよう激励。)

    4)Xīwàng dàjiā běnzhe yǒuhǎo de tàidù, dáchéng jùtǐ de xiédìng,wèi xiàyíbù gōngzuò kāipì (/ kāituò) dàolù.
    希望大家本着友好的态度,达成具体的协定,为下一步工作开辟(开拓)道路。
    (皆さんが友好的な態度に基づき、具体的な協 定に合意し、次の段階に向け、新たなる道を切り開いてくださることを希望します。)

    同じ目的語を用いても、“开拓”には、範囲を拡大発展させるという意味合いがあり、既にあるものから発展拡大させる(小→大)意味が、“开辟”には、創設する、開設するという意味合いがあり、無いところから新しく作る(無→有)というニュアンスの違いがある。
    上記①~④では、その違いはあまり顕著ではない為、“开拓”、“开辟”のどちらを用いても容認される。しかし、以下⑤~⑨のように、同じ目的語でも、小→大、無→有の違いがより顕著である場合には、“开拓”、“开辟”のどちらか一方に限定される。

    5)Dànbáizhì jīyīn de xíngchéng hé fāzhǎn, wèi xiàyíbù yánjiū zhìliáo nǚxìng rǔxiàn'ái de yǒuxiào yàowù kāipì(* kāituò) le xīn tújìng.
    蛋白质基因的形成和发展,为下一步研究治疗女性乳腺癌的有效药物开辟(*开拓)了新途径。
    (蛋白質の遺伝子の形成と発展は、女性の乳腺癌治療に有効な薬の更なる研究の為に、新たな道を切り開いた。)

    6)A hé B zài xiànyǒu de jīngyíng hézuò jīchǔ shang hái liánhé jiànlì le yì pī yánfā jīgòu, kāituò(* kāipì) shuāngfāng hézuò xīn tújìng.
    A和B在现有的经营合作基础上还联合建立了一批研发机构,开拓(*开辟)双方合作新途径。
    (AとBは、従来の協力関係を元に更に研究機関を設立し、双方の協力関係の新たな道を切り開いた。)

    7)Zhèyàng, yóuyú kēxuéjiā men zhízhuó ér xìzhì de yánjiū,kāipì(* kāituò) le rénlèi lìyòng yuánzǐnéng de cànlàn qiánjǐng.
    这样,由于科学家们执着而细致的研究,开辟(*开拓)了人类利用原子能的灿烂前景。
    (このようにして科学者たちは、粘り強く丹念な研究により、人類の原子エネルギー利用の燦然たる将来への見通しを切り開いた。)

    8)Zhōngfāng de xíngdòng gěi Nánnán hézuò kāituò(* kāipì) le guǎngkuò de qiánjǐng.
    中方的行动给南南合作开拓(*开辟)了广阔的前景。
    (中国の行動は、発展途上国間の経済協力に広い見通しを開いた。)

    7)8)には、小→大、無→有の違いはそれほど顕著ではないが、“开辟”には、トンネルを抜けて光が見えるようなニュアンス、つまり新天地創造のイメージがあり、また“开拓”の切り開くフィールドは、拡大、拡張する広がりを感じさせる。

    9)Zhè wèi xuésheng jiùyè kāituò(kāipì) le yì tiáo lǜsè tōngdào.
    这为学生就业开拓(开辟)了一条绿色通道。
    (このことは、学生の就職にとり、迅速な手続きの道を開いた。)

    10)Běijīng tiělù fēnjú hái yāoqiú kāipì(* kāituò) yìngjí tōngdào.
    北京铁路分局还要求开辟(*开拓)应急通道。
    (北京鉄道局は、更に緊急通路の開設を要求した。)

    9)10)には、小→大、無→有のニュアンスの違いも存在するが、9)の“通道”が、抽象的な意味の“通道”なのに対し、10)の“通道”は実際の通路である。従って、抽象的な目的語には“开拓”“开辟”共に用いることができるが、具体的語句が目的語となる場合は、“开辟”のみしか用いることができない。

    具体的な語句が目的語となり、“开辟”しか用いることができない例は以下の 11)~13)を参照されたい。

    2.“开拓”または“开辟”の一方にのみに限定して用いられる目的語

    “专栏”、“专版”、“栏目”は、具体的な語句であり、“开辟”のみが用いられる。無→有の概念もあてはまる。

    11)Tā zài bào shang kāipì(* kāituò) le zhuānlán.
    他在报上开辟(*开拓)了专栏。
    (彼は新聞にコラムを開設した。)

    “航线”、“航点”、“航班”、“新线路”、“路线”も、具体的な語句であり、且つ、無→有の概念もあてはまり、“开辟”のみが用いられる。

    12)Jīnnián 3 yuè Àodìlì hángkōng gōngsī jiāng kāipì(* kāituò) Shànghǎi hángxiàn.
    今年3月奥地利航空公司将开辟(*开拓)上海航线。
    (今年3月、オーストリア航空が上海路線を開設する。)

    “革命根据地”、“北方战场”、“战线”などは、具体的語句であり、且つ、無→有の概念もあてはまり、更に軍事用語またはそれに準ずる語句として、輝かしさを表したい意図も感じられ、これらの目的語には“开辟”のみが用いられる。

    13)Máo Zédōng zài nóngcūn kāipì(* kāituò) gémìng gēnjùdì zhōng,yě tíchū le zhège wèntí.
    毛泽东在农村开辟(*开拓)革命根据地中,也提出了这个问题。
    (毛沢東は農村に革命拠点をおいた時、この問題を提言した。)

    “眼界”、“视野”は元々ある視野を拡大させる(小→大)ことから、これらの目的語には“开拓”を用い、“开辟”は用いない。

    14)Yào chéngdān jiàoyù zhòngrèn, měi yí ge jiàoshī dōu yīng búduàn de jíqǔ xīn zhīshi, kāituò(* kāipì) yǎnjiè, jīngtōng zhuānyè.
    要承担教育重任,每一个教师都应不断地汲取新知识,开拓(*开辟)眼界,精通专业。
    (教育の重大任務を担い、それぞれの教師は、みな常に新たな知識をつけ、視野を拡げ、専門分野に精通していなければならない。)

    “未来”には“开拓”を用い、“历史”、“新纪元”、“新时代”には“开辟”を用いる。“未来”は現在あっての未来(小→大)である為、“开拓”を用いる。また、“未来”には、フィールドの広さも感じることができる。“开辟”には、無→有の概念と共に、有史以来という意味が備わる為、“历史”、“新纪元”、“新时代”には、“开辟”を用いる。

    15)Wǒmen yīngdāng zhēnxī zhè duàn wénhuà jiāoliú, yǐ wēn gù chuàngxīn kāituò(* kāipì) wèilái.
    我们应当珍惜这段文化交流,以温故创新开拓(*开辟)未来。
    (我々はこの度の文化交流を大切にし、古きを温め、新しきを創造し、未来を切り開いていかなければならない。)

    16)Cóngcǐ kāipì(* kāituò) le pò bīng hángxíng de lìshǐ.
    从此开辟(*开拓)了破冰航行的历史。
    (ここから砕氷航行の歴史が作られた。)

    (執筆:川名 理惠)

“点” diǎn、“要” yào(魯 暁琨)
  • “点”、“要”はいずれもレストランで料理を注文する時に用いることができる。“点”は「多くの料理という選択肢のなかから,何かを指定する」ことで、つまり好きなモノを指名して選ぶという行為である。それに対して“要”は「それを欲しいと要求する」ことである。“点”のほうはリクエストをするから,どこか優雅であるが、“要”はちょっとあからさまで,直接的な感じがする。これにより、“点”と“要”の用い方は下記のような違いが見られる。
    まず、料理を注文することを一つの行為タイプとして捉えるときは“点菜”を用い、“要菜”とはいわない。たとえば、

    1)Kèhòu, xuéshengmen jiù dào zhōngcānguǎn yòng Zhōngwén diǎncài.
    课后,学生们就到中餐馆用中文点菜。(×要)
    (放課後、学生たちは中華料理のレストランに行って中国語で料理を注文した。)

    2)Kèrén yòngcān, cóng diǎncài dào shàngcài bùdé chāoguò shíwǔ fēnzhōng.
    客人用餐,从点菜到上菜不得超过15分钟。(×要)
    (お客様が召し上がるとき、注文から料理をお出しするまで15分以上かかってはいけない。)

    3)Lǚdiàn yí ge tíngtíngyùlì de fúwù xiǎojiě jìnlai wēiwēi yí xiào:jǐ wèi diǎncài ma?
    旅店一个亭亭玉立的服务小姐进来微微一笑:几位点菜吗? (×要)
    (旅館のほっそりした姿の若い女性が部屋に入ってきて、微笑で「みなさん、料理を注文しますか」と聞いた。)

    4)Fúwùyuán, Wǒmen diǎncài.
    服务员,我们点菜。(×要)
    (すみません、注文、お願いします。)

    例1)2)では、個々の料理を注文する具体的な場面ではないが、3)4)のような料理を注文する対話の場面でも“点菜”しか言えない。ただし、客同士が「料理を注文する」を言う場合だけは自由選択ができ、5)のように“点菜”も“要菜”も言える。

    5)Zánmen yào(diǎn) cài ba.
    咱们要菜吧。(○点)
    (注文しましょう。)

    Hǎo, zánmen yào (diǎn)cài , Lǎo Wáng shuō zhe bǎ pǎotáng de jiào guòlai.
    好,咱们要菜。老王说着把跑堂的叫过来。(○点)
    (ええ、注文しましょう。王さんはそう言いながらボーイを呼びよせた。)

    また、「“点”/“要”+注文内容」という構造で、レストランで店側と客側の対話の場合、客側は“点”用いることができないこともある。

    6)Nín diǎn(yào ) diǎnr shénme?
    您点点儿什么?(○要)
    (何にされますか?)…店

    Wǒ yào yì píng píjiǔ、 yí ge qīngjiāo ròusī, zài yào yì wǎn tāng.
    我要一瓶啤酒、一个青椒肉丝,再要一碗汤。(×点)
    (ビール一本、青椒肉丝、それにスープをください。)…客

    サービス側は注文の内容を尋ねるとき、“点”も“要”も用いることができるが、客側は注文内容を言うとき、“要”を用いるのが普通である。
    しかし、同じく「“点”/“要”+注文内容」という構造でも、何を注文したかまたは注文するかということを述べる場合、つまり店側と客側の対話ではない場合では、“点”と “要”は互換できる。確かに“点”は“要”より丁寧であるが、大差はない。このような例が多数ある。

    7)Wǒmen diǎnle jǐ ge xiǎocài,biān chī biān liáoqitiānlai.
    我们点了几个小菜,边吃边聊起天来。(○要)
    (わたしたちは小皿の料理をいくつか注文し、食べながらおしゃべりをはじめた。)

    8)Tā yàole yì pán ròu, yì wǎn tāng , chī de jīnjīnyǒuwèi.
    他要了一盘肉,一碗汤,吃得津津有味。(○点)
    (かれは肉料理、スープを注文し、おいしそうに箸を動かしている。)

    9)Láirén diǎnle jiǔ, yòu yàole liǎng ge cài.
    来人点了酒,又要了两个菜。(○要)(○点)
    (お客はお酒を注文した後、料理を二つ注文した。)

    ちなみに、近年“点菜”の派生用法もよく見られる。たとえば、

    10)Nánhǎi dàxué tuīchū“diǎncàishì” shuāngxiūrì huódòng.
    南海大学推出“点菜式”双休日活动。(×要)
    (南海大学では「学生が選べるメニュー式」週末活動プログラムが登場した。)

    パソコンのメニューも“菜单”と訳されており、中国語では食関係の単語はかなり活躍していると言えよう。

    (執筆:魯 暁琨)

“姑娘”gūniang、“小姐”xiǎojie(保坂 律子)
  • “姑娘”gūniang、“小姐”xiǎojieは次のようにいずれも「お嬢さん、娘」という意味を持つ。

    1)Nèi wèi(gūniang/ xiǎojie)zhǎngde zhēn piàoliang.
    那位(姑娘/小姐)长得真漂亮。
    (あの娘さんは本当に綺麗だ。)

    2)(Gūniang/Xiǎojie),nǐ yaò něi zhǒng miànliào?
    (姑娘/小姐),你要哪种面料?
    (お嬢さん、どんな生地がお好みですか?)

    3)Bāshí niándài de(Gūniang/Xiǎojie)hái nàme fēngjiàn?
    八十年代的(姑娘/小姐)还这么封建?
    (80年代の娘さんなのにこんなに封建的なのですか?)

    1)~3)からは“姑娘”gūniang、小姐”xiǎojieは互換性が高いと思われがちだが、両者の間には以下のように比較的明確な違いがある。

    Ⅰ. 実際の親子関係の「娘」を表す場合、すなわち英語の“daughter”に相当する意味は“姑娘”gūniangだけが持ち、小姐”xiǎojie にはない。したがって(4)~(7)の“姑娘”を“小姐”xiǎojieに言い換えることはできない。

    4)Lǎo Wáng,nǐ de(gūniang/*xiǎojie)jīnnián duō dà le?
    老王,你的(姑娘/*小姐)今年多大了?
    (王さん、おたくのお嬢さんは今年おいくつですか?)

    5)Tā shì shéi jiā de(gūniang/*xiǎojie),zhǎngde zhēn paiòliang.
    她是谁家的(姑娘/*小姐),长得真漂亮。
    (あの人どこの家のお嬢さんですか?とってもきれい!)

    6)Wǒ de èr(gūniang/*xiǎojie)dōu chūjià le.
    我的二(姑娘/*小姐)都出嫁了。
    (次女はもう嫁ぎました。)

    7)Tāmen yǒu yí ge érzi hé yí ge(gūniang/*xiǎojie).
    他们有一个儿子和一个(姑娘/*小姐)。
    (彼らには息子が一人と娘が一人いる。)

    Ⅱ. 対象となる年齢についてみると、“姑娘”gūniangはおおむね少女から未婚の若い女性までである。イメージとして“姑娘”gūniang は、少女から結婚適齢期くらいと考えてよいが、婚期に達しても独身であることを示す場合には“大”dツを加えて“大姑娘” dà gūniang、さらに婚期をはるかに越えているような場合には“老”lǎoを加えて“老姑娘” lǎo gūniangなどと言う。逆にまだ小さい女の子には“小”xiǎoを加えて用いることも多い。

    8)Tā sìshí duō le, háishi lǎo(gūniang/*xiǎojie).
    她四十多了,还是老(姑娘/*小姐)。
    (彼女は40過ぎだが、まだ独身だ。)

    9)Xiǎo(gūniang/*xiǎojie),nǐ jǐ suì le?
    小(姑娘/*小姐),你几岁了?
    (お嬢ちゃん、いくつ?)

    一方、解放前の中国において、使用人が主人の妻を“太太” tàitai(奥様)と呼び、主人の娘を“小姐”xiǎojie(お嬢様)と呼んでいたためか、“小姐”xiǎojieの指す年齢は“姑娘”gūniangより広く、日本語の「お嬢さん」から連想される年齢を超えても使われる。

    Ⅲ. 使用場面については、“姑娘”gūniang は庶民の生活場面で使われる飾り気のない言葉であるのに対し、“小姐”xiǎojieは少し「クラス感」が感じられ、外国人女性への呼びかけをはじめ、公的場面や職務上で使われることが多いという違いがある。(10)、(11)のような仕事の場面では“姑娘”gūniangは使えない。なお、“小姐”xiǎojie が中国人同士で呼びかけに使用されるようになったのは最近のことである。

    10)(Xiǎojie/*Gūniang),qǐngwèn,jīnglǐ bàngōngshì zài nǎr?
    (小姐/*姑娘),请问,经理办公室在哪儿?
    (あの、お尋ねいたしますが、社長室はどちらでしょうか?)
    11)Zhè wèi shì wǒmen de fānyì Wáng(xiǎojie/ *gūniang).
    这位是我们的翻译王(小姐/*姑娘)。
    (こちらは私どもの通訳の王さんです。)

    Ⅳ. “小姐”xiǎojie はガイド、スチュワーデス、コンパニオンなどの職業に従事する女性をあらわす語を構成することがあるが、“姑娘” gūniangにはこの用法はない。

    12)dǎoyóu(xiǎojie/ *gūniang)
    导游(小姐/*姑娘)
    (観光ガイド)

    13)lǐyí(xiǎojie/ *gūniang)
    礼仪(小姐/*姑娘)
    (コンパニオン)

    14)Nèi jiā hángkōng gōngsī de kōngzhōng(xiǎojie/*gūniang)fúwù hěn zhōudào.
    那家航空公司的空中(小姐/*姑娘)服务很周到。
    (あの航空会社のスチュワーデスはサービスがとても行き届いている。)

    また“小姐”xiǎojie はサービス業に従事する女性への呼びかけにも使われる。“姑娘”gūniangにこの用法はない。

    15)(Xiǎojie/*Gūniang),qǐng lái yì píng píjiǔ.
    (小姐/*姑娘),请来一瓶啤酒。
    (すいません、ビールを一本お願いします。)

    なお“小姐”xiǎojieは風俗業の女性を指して使われることがあり、“小姐”xiǎojie単独での呼びかけを嫌う人も多い。そのため(15)のような場合、“小姐”xiǎojieを使うことを避け、“服务员” fúwùyuán、“美女” měinǚなどの語を用いて呼びかける人もいる。

    (執筆:保坂 律子)

“好吃”hǎochī、“香”xiāng(河村 雅子)
  • “好吃”“香”どちらも形容詞で「美味しい」という意味がある。
    《现代汉语词典》は“好吃”を1語として扱っておらず,“好”形容詞+“吃”動詞としているが,ここでは“好吃”は1語の形容詞とする。

    1)Shíjiān bù zǎo le,wǒ gāi zǒu le,zhè dùn jiǎozi zhēn xiāng!Xièxie nǐ qǐngkè ba!
    时间不早了,我该走了,这顿饺子真香!谢谢你请客吧!(/好吃)
    (もう時間も遅いですから,おいとましなくてはなりません。水餃子はとても美味しかったです。お招きありがとうございました。)

    “香”の第一義は「香りがよい」である。よいにおいのする食べ物はたいてい「おいしい」,そこから“好吃”と類義関係が生じるのだろう。
    前に付ける副詞は“真”zhēnの他に,“很”hěn“特别”tèbié“非常”fēicháng“太”tàiなどが共通して使える。
    食べ物は“饺子”jiǎoziだけでなく,“粥”zhōu(お粥)でも,欧米的な“汉堡包”hànbǎobāo(ハンバーガー)でも構わない。特に温かいものは湯気を発する。それはよい香りを含むことが多い。逆に冷たいものは「香りの発散性」がないのであまり“香”は使えない傾向にある。

    2)Zhè ge bīngjīlíng tèbié hǎochī.
    这个冰激凌特别好吃。(*香)
    (このアイスクリームは格別おいしい。)

    アイスクリームの他にも,お寿司・お新香・ゼリー等も同様に“香”はふさわしくない。
    また,飲み物の場合,周知のように“好吃”は“好喝”hǎohē(飲んでおいしい)に言い換えが必要だが“香”は使用できる。この場合も珈琲のような熱く香りを発するものが最もふさわしい。

    3)hěn xiāng de kāfēi
    很香的咖啡。(*好吃)
    (おいしいコーヒー。)

    (執筆:河村 雅子)

“带”dài、“拿”ná(郭 雲輝)
  • “带dài”も“拿ná”も「持つ」という意味を表す動詞であるが、両者の使い方はまったく同じだろうか?
    “带”は,どちらかと言えば、「携帯する」「身に付けて持つ」というところに重点をおいているが、「携帯したまま移動する」という意味も含意されている。明らかに「携帯して移動する」「身に付けて移動する」という意味を表す場合には、“拿”に置き換えられないのが普通である。例えば、

    1)Wǒ měitiān dōu dài fàn.
    我每天都带饭。(× 拿)
    (私は毎日お弁当を持参する。)

    2)Shēnfènzhèng yào suíshēn dài zhe.
    身份证要随身带着。(× 拿)
    (中国の選手は誇らしげに李寧ブランドの運動服を着て世界の舞台に赴いた。)

    3)Nǐ dài qián le ma?
    你带钱了吗?(? 拿)
    (お金を持っている?/お金を持って来ている?)

    上記の例文1)2)は“带”を“拿”に置き換えることができないが、3)における“带”を“拿”に置き換えると、どうなるだろう。

    3')Nǐ ná qián le ma?
    你拿钱了吗?

    例3’)の場合は、使用する場面によって、「〈出かける前に言う〉お金を持った?」「お金をもらった〈受領した〉か。」「お金を取ったの〈盗んだ〉か。」というふうに意味がわかれてしまうことになるだろう。一方、“拿ná”は、基本的に「手にする」「手で握って持つ」という意味を表すので、明らかに「手に持つ」という意味を表すときには、“带”に換えられない。

    4)Xiāngzi tài zhòng le,wǒ yí ge rén nábudòng.
    箱子太重了,我一个人拿不动。(× 帯)
    (このトランクは重すぎで、私一人では持てない。)

    5)Tā shǒuli ná zhe yì bǎ yǔsǎn.
    她手里拿着一把雨伞。(× 帯)
    (彼女は手に傘を持っている。)

    なお、次の文では、“拿”と“带”のあとに結果補語“到/上” 或いは、方向補語“来/去/过来”などがつくことによって両方言えるようになる。“拿”の場合は、「わざわざ」持って行く、持って来るという意味になるし、“带”の場合は、「ついでに」持って行く、持って来るということになるだろう。明らかに相手の行動が分かっていて、「ついでに」やってもらいたい時には“带”を使うのである。例えば、例6’)、例7’)がそうである。また、“带” は「ついでに」の意味を持っているので、命令する時は“拿”より少し口調が軽くなる。

    6)Nǐ bǎ zhè bǎ yǐzi nádào wūli qù.
    你把这把椅子拿到屋里去。
    (この椅子を部屋(の中)に持って行って。)

    6')Nǐ bǎ zhè bǎ yǐzi dàidào wūli qù.
    你把这把椅子带到屋里去。(相手が部屋に入ろうとしているのが分かっていて、頼む時に言う)
    (ついでにこの椅子を部屋まで持って行って。)

    7)Máfan nǐ bǎ jiǎnzi náguolai.
    麻烦你把剪子拿过来。
    (すみません、ハサミを取って来て。)

    7')Máfan nǐ bǎ jiǎnzi dàiguolai.
    麻烦你把剪子带过来。(相手がこちらにくると分かっていて、頼む時いう)
    (すみません、ついでにハサミを持って来て。)

    8)Míngtiān bié wàng le bǎ zhàoxiàngjī dàilai (/qu).
    明天别忘了把照相机带来(/去)。
    (明日カメラを持ってくる(/行く)のを忘れないでね。)

    8')Míngtiān bié wàng le bǎ zhàoxiàngjī nálai (/qu).
    明天别忘了把照相机拿来(/去)。
    (明日カメラを持ってくる(/行く)のを忘れないでね。)

    次の9)10)は“带”と“拿”でいう場合もあるが、それぞれ“带上”と“拿上”の省略とも考えられる。

    9)Xiàwǔ yǒu yǔ,bié wàngle dài sǎn.→ Xiàwǔ yǒu yǔ,bié wàngle dàishang sǎn.
    下午有雨,别忘了带伞。    → 9’)下午有雨,别忘了带上伞。

    10)Xiàwǔ yǒu yǔ,bié wàngle ná sǎn.→ Xiàwǔ yǒu yǔ,bié wàngle ná shàng sǎn.
    下午有雨,别忘了拿伞。   → 10’)下午有雨,别忘了拿上伞。
    (午後は雨が降るらしいから、傘を持って行く(/来る)のを忘れないでね。)

    一方、目的語になるのが人間の場合は、“带”しか使えない。

    11)Nǐ bǎ tā dàilai.
    你把他带来!
    (彼を連れて来い。)

    * 你把他拿来!
    (*彼を持ってこい。)

    さらに、人にものを托してどこかへ持って行ってもらう場合には、“带”を使って、“拿”を使わない。何故なら、この場合は「わざわざものを持って行ってもらう」ではなく、「ついでにものを持って行ってもらう」という状況だからである。“帯”は移動が想定されていて,それに伴って「携帯」するというのが本義なので、人に物を頼むときには「負担軽減化」の原則が働き,「ついでに」という語感をもつ“帯”が使いやすいのである。

    12)Tā tuō wǒ dài dōngxi.
    她托我带东西。
    (彼女からものを預かった。)

    一方では、次に示すように、“拿”には、介詞として使用される場合、「を」に相当する用法も見られる。

    13)Bié ná wǒ kāi wánxiào.
    别拿我开玩笑。
    (私をからかわないで。/おれをからかうな。)

    俗語、慣用語になると、 “带”と“拿”の用法が分かれる。

    ◆dài bìng jiānchí gōngzuò
    带病坚持工作
    (病気を押して仕事を続けている)

    ◆dài jūn zhě
    带菌者
    (保菌者)

    ◇názhe jīmáo dāng lìngjiàn
    拿着鸡毛当令箭
    (取るに足りないことで偉そうにふるまう。権勢を笠に着る)

    ◇nádàdǐng
    拿大顶
    (逆立ちする)

    (執筆:郭 雲輝)

“难怪” nánguài、“怪不得”guàibude(費 燕)
  • “难怪”と“怪不得”はどちらも副詞と動詞の用法を持っている。副詞として使うときには「道理で.なるほど」、動詞として使うときには「責められない.とがめることができない」という意味になる。“怪不得”、“难怪”のある文の前後には、一般的に理由や事情を説明する文言が見られる。
    “难怪”と“怪不得”が副詞として用いられるとき、発生したある事に対し、原因が分かったために、おかしい、理解できないという気持ちがなくなり、疑問が解けて、「道理で」、「なるほど」と納得できたことを表す。

    1)Nánguài(guàibude) tā de fāyīn nàme biāozhǔn, tā liúguo sān nián xué ne.
    难怪(怪不得)他的发音那么标准,他留过三年学呢。
    (道理で彼の発音はあんなにきれいなわけだ、3年留学したんだもの。)

    2)Tiānqi yùbào shuō jīnwǎn yǒu yǔ,nánguài(guàibude) zhème mènrè.
    天气预报说今晚有雨,难怪(怪不得)这么闷热。
    (天気予報によれば今日雨だそうだ、道理でこんなに蒸し暑いわけだ。)

    こういう場合“难怪”、“怪不得”のどちらも使うことができ、意味もほぼ同じである。 ただ“怪不得”は口語性が強いため、会話文や柔らかい口語文によく使われるが、“难怪”は書面語的であるため、多くは硬い文章に用いられる。

    “难怪”が動詞として使われる時、目的語があってもなくてもよい。目的語がない時、よく“~也难怪”の形式をとる。“也”は口調をやわらげる働きをする。“怪”は本来動詞で「とがめる、非難する」という意味で、その前に“难”を置くと、「とがめにくい.とがめづらい」という意味になるが、相手の立場、状況、気持ちなどを考え、理解できるという語気も含む。

    3)Zhè yě nánguài, zhèli tiáojiàn tài èliè le.
    这也难怪,这里条件太恶劣了。
    (これは無理もない、ここの環境が悪すぎだ。)

    4)Tā gāng lái Zhōngguó, shēnghuó hái bù xíguàn, yǔyán yòu bù tōng, xiǎng jiā yě nánguài.
    她刚来中国,生活还不习惯,语言又不通,想家也难怪。
    (彼女は中国に来たばかりで、生活にまだ慣れていないし、言葉も通じないから、故郷を思うのも無理がない。)

    5)Tā bù zhīdao kāihuì shíjiān tíqián le, lái wǎn le yě nánguài (guàibude) tā.
    他不知道开会时间提前了,来晚了也难怪(怪不得)他。
    (彼は会議の時間が早くなったことを知らなかったから、遅れたのも無理はない<彼のせいにするわけにはいかない>)

    6)Zhè yě nánguài(guàibude) nǐ bàba, tā gōngzuò tài máng le.
    这也难怪(怪不得)你爸爸,他工作太忙了。
    (あなたのお父さんをとがめるわけにはいかない、お父さんは忙し過ぎるんだよ。)

    “怪不得”は動詞として使うとき、必ず後に目的語をつかなければならない。よって、例③④の文には使えない。例⑤⑥は“难怪”と置き換えられる。しかし、次の⑦⑧の二文は、“难怪”に置き換えるのは難しい。

    7)Zhècì quánjūn fùmò guàibude tuánzhǎng hé zhèngwěi. Shì shàngjí zhǐhuī de shìwù.
    这次全军覆没怪不得团长和政委。是上级指挥的失误。
    (今回の全軍潰滅は連隊長と政治委員のせいではない。上級部門の指示の誤りだ。)

    8)Yóucǐkějiàn, wǒguó mùqián cháyè chūkǒu bù jǐngqì guàibude guójì shìchǎng, zhǐ néng guài zìjǐ.
    由此可见,我国目前茶叶出口不景气怪不得国际市场,只能怪自己。
    (このことから、目下我が国のお茶の輸出不景気は国際市場のせいにするべきではなく、自己責任であることが分かった。)

    この二文にある目的語の“团长和政委”、“国际市场”は責められる、とがめられる立場に置かれ、またはすでに置かれた時に、発話者又は筆者はそれを否定し、責任を負わせるべきではないと主張する。“难怪”と“怪不得”の主な違いは、“怪不得”は目的語である人または事物は,発生したある好ましくない、不愉快な事に対し、責任を背負わせるべきではない、とがめることができない意を表し、他方、“难怪”は「相手の気持ちや立場、置かれる状況を察したうえで理解できる、許せる」という意を表すところにあるからだ。

    “怪不得”、“难怪”は単独でも使える。

    9)Lǐdàifu huǎngrándàwù de fǔzhe shǒuzhǎng, xiào le qǐlai:“guàibude!”tā dàshēng shuō.
    李大夫恍然大悟的拊着手掌,笑了起来:“怪不得!”他大声说。
    (李先生ははっと分かったようで両手をたたきながら笑い出して「なるほど!」と大声で言った。)

    10)Ō,nánguài,zhèli zhèngshì dēnggāo wàngyuǎn de hǎo qùchu.
    噢,难怪,这里正是登高望远的好去处。
    (そうか、なるほど!ここはまさしく高いところに登って遠望するのにいいところだ。)

    (執筆:費 燕)

“推测”tuīcè、猜测”cāicè(野原 靖久)
  • “推测”は既に明らかとなった結果・事柄から推し量るときに用いる。いっぽう,“猜测”は“推测”と異なり,根拠がない,または直接的な根拠ではない事柄に基づくといった主観的な想像によるときに用いられる。
    1)~4)は,既に明らかになった結果から推し量っているので“推测”を用いる。

    1)Kēxuéjiā gēnjù yǒuguān shùjù tuīcè,guòqù huǒxīng de dàqìyā céng shì mùqián dìqiú dàqìyā de jìn 3 bèi,ér xiànzài zhǐyǒu dìqiú de wǔshí fēn zhī yī,zài zhèizhǒng qíngkuàngxià,jiǎrú huǒxīng biǎomiàn yǒu shǎoliàng shuǐ liúchū,mǎshàng jiù huì qìhuà.
    科学家根据有关数据推测,过去火星的大气压曾是目前地球大气压的近3倍,而现在只有地球的五十分之一,在这种情况下,假如火星表面有少量水流出,马上就会气化。
    (科学者はデータに基づき次のように推測した。過去の火星の大気圧は,以前は地球の3倍ほどあったが,現在は地球の50分の1ほどしかないので,もし,この状況下で火星表面に水が流出したらすぐに気化してしまうだろう。)

    2)Gēnjù Rìběn de rénkǒu pǔchá jiéguǒ,jiézhì 2000 nián,Rìběn zǒngrénkǒu shì 1.26 yì,qízhōng 65 suì yǐshàng lǎoniánrén duōdá 2200 wàn.Rìběn yǒuguān jīgòu tuīcè,dào 2013 nián Rìběn de lǎonián rénkǒu jiāng tūpò 3000 wàn.
    根据日本的人口普查结果,截至2000年,日本总人口是1.26亿,其中65岁以上老年人多达2200万。日本有关机构推测,到2013年日本的老年人口将突破3000万。
    (日本の国勢調査によると,2000年において総人口は1.23億人に対し,65歳以上の人口は2200万人に達する。日本の関係官庁は2013年には65歳以上の人口が3000万人を突破すると推測している。)

    3)Gēnjù gŭmù de zhèxiē tèdiǎn, kǎogŭ zhuānjiā tuīcè jiāngqí wéi Dōngjìn mùzàng.
    根据古墓的这些特点,考古专家推测将其为东晋墓葬。
    (墓のこれらの特徴から,考古学者は東晋時代のものだと推測した。)

    4)Yùbào guānyuán gēnjù wèixīng túxiàng tuīcè míngtiān kěnéng huì chūxiàn qíngtiān.
    预报官员根据卫星图像推测明天可能会出现晴天。
    (天気予報士は,衛星画像から明日は晴れると予測した。)

    これに対して次の5)~7)は根拠がない,または直接的な根拠ではない事柄に基づく主観的な想像によるものでいずれも“猜测”が用いられている。

    5)Zhìyú rénlèi shēngāo wèi shénme zài shíbā hé shíjiǔ shìjì yòu kāishǐ zēngzhǎng,kēxuéjiā cāicè,kěnéng shì yóuyú nóngyè shēngchǎnlǜ de tígāo hé yīliáo jiànkāng tiáojiàn de gǎishàn.
    至于人类身高为什么在十八和十九世纪又开始增长,科学家猜测,可能是由于农业生产率的提高和医疗健康条件的改善。
    (人類の身長はなぜ18,19世紀から再び伸び始めたのかについては,農業の生産性の向上と,医療や健康条件の改善のためだと,科学の専門家は推測している。)

    6)Píngzhe zìjǐ de jīngyàn、cāicè hé tuīduàn lái bànshì.
    凭着自己的经验、猜测和推断来办事。
    (自身の経験,予測,推断に基づき,行動する。)

    7)Zhè yìzhōu shì qíngtiān,wǒ cāicè míngtiān yě qíngtiān.
    这一周是晴天,我猜测明天也晴天。
    (この1週間晴れだったから,明日も晴れだと考えた。)

    “推测”と“猜测”は,名詞としても用いることができる。名詞の場合も動詞と同様に,明確な根拠などをもとに推し量っている場合は“推测”を,そうでない場合は“猜测”を用いる傾向にある。

    8)“Kànjian zhuōzi shang hái yǒu yī píng niàngzào de yàojiǔ,zǎofàn hái méiyǒu chīwán.” Nǚzǐ huáiyí shì yàojiǔ rě de huò,zài zhòngdú lǎorén bèi sòngdào yīyuàn jīngguò jiǎncháhòu,yīshēng zhèngshí le nǚzǐ de tuīcè.
    “看见桌子上还有一瓶酿造的药酒,早饭还没有吃完。”女子怀疑是药酒惹的祸,在中毒老人被送到医院经过检查后,医生证实了女子的推测。
    (「テーブルには醸造した薬用酒があり,朝ごはんはまだ食べ終わっていなかった。」女性は薬用酒が中毒の原因ではと疑った。老人が病院に運ばれ検査を受けたところ,医者はこの女性の推測を証明した。)

    9)Kànlái zìjǐ gāngcái de cāicè shízài yŏudiǎnr tài tiānzhēn le.
    看来自己刚才的猜测实在有点儿太天真了。
    (先ほどの自身の推測は,どうやらとても幼稚であった。)

    (執筆:野原 靖久)

“电影”diànyǐng、“影片”yǐngpiàn(横山 康恵)
  • いずれも名詞で「映画」の意味を持つ。

    1)Nǐ kànguo 《Hónggāoliang》zhè bù diànyǐng (/yǐngpiàn ) ma?
    你看过《红高粱》这部电影(/影片)吗?
    (あなたは映画《紅いコーリャン》を観たことがありますか?)

    2)Zhè bù yǐngpiàn (/diànyǐng) yùdìng yú 25rì zài Měiguó shàngyìng.
    这部影片(/电影)预定于25日在美国上映。
    (この映画は、25日アメリカで封切り予定です。)

    3)Nà bù diànyǐng (/yǐngpiàn ) de jiéwěi tèbié bàng.
    那部电影(/影片)的结尾特别棒。
    (あの映画の結末は特に良かった。)

    このように「映画」の意味で扱う時、多くの場合互換性があるが、意味・用法上重ならない部分もある。

    まず、“电影”は意味上多面的な側面を持ち、複合的な「映画」全体を指す。
    电影明星diànyǐng míngxīng(映画スター)、 电影工作者diànyǐng gōngzuòzhě(映画関係者)、 电影人diànyǐngrén(映画に携わる人)、 电影界diànyǐngjiè(映画界)、 电影业diànyǐngyè(映画業界)、 电影学院diànyǐng xuéyuàn(映画学校)
    など、総合芸術である「映画」全般に関連する語においては、“电影”との結合が一般的である。

    4)Diànyǐngshǐ, měishù, yīnyuè, wénxué, shèyǐng, lùyīn háiyǒu biǎoyǎn, wǒ dōu rènzhēn de xuéxí.
    电影史、美术、音乐、文学、摄影、录音还有表演、我都认真地学习。(*影片)
    (映画史、美術、音楽、文学、撮影、録音そして演技、私はどれもまじめに学ばなければならない。)

    一方、“影片”は原義の一つに「フィルム」があるように、意味の指す範囲は「作品」に置かれる。故事影片gùshi yǐngpiàn(ストーリー映画)、 记录影片jìlù yǐngpiàn(記録映画)など作品の種類を表す場合は“影片”との結合が強い。
    そして、その指し示す「作品」の範囲は映画だけに限らず、テレビや他の媒体も含む。

    5)Nà shì Yīngguó guǎngbō gōngsī pāi de yí bù diànshì yǐngpiàn, jiǎng de shì shēngmìng de qǐyuán hé jìnhuà zhèyàng yí ge dà tímù.
    那是英国广播公司拍的一部电视影片,讲的是生命的起源和进化这样一个大题目。(*电影)
    (それはイギリス放送局が撮ったテレビ作品で、生命の起源と進化という大きなテーマでした。)

    6)1200 bù yǐngpiàn, qízhōng 800 bù wéi gùshipiàn, 400 bù shì diànshìpiàn, shāngyè guǎnggàopiàn hé yìzhìpiàn, ér 3/4 de yǐngpiàn shì zài Mèngmǎi diànyǐngchéng nèi pāishè de.
    1200部影片,其中800部为故事片,400部是电视片、商业广告片和译制片,而3/4的影片是在孟买电影城内拍摄的。(*电影)
    (1200の作品中、800作品が劇映画、400作品がテレビ番組、商業広告と翻訳作品、3/4の作品がムンバイ映画村で撮影されたものです。)

    「映画を観に行く」「映画を観るのが好き」は、通常“去看” “喜欢看”の後に“电影”が続き、“影片”とは結合しない。

    7)Míngtiān zánmen qù kàn diànyǐng hǎobuhǎo?
    明天咱们去看电影好不好?(*影片)
    (明日、映画を観に行かない?)

    8)Wǒ xǐhuan kàn diànyǐng.
    我喜欢看电影。(*影片)
    (私は映画を観るのが好きです。)

    しかし、そこに限定詞がついたり特定の作品を指して具体性を帯びると、“影片”に置き換え可能となる。

    9)Míngtiān zánmen qù kàn nà bù diànyǐng (/yǐngpiàn ) hǎobuhǎo?
    明天咱们去看那部电影(/影片)好不好?
    (明日、あの映画を観に行かない?)

    10)Wǒ xǐhuan kàn zhè bù diànyǐng (/yǐngpiàn ).
    我喜欢看这部电影(/影片)。
    (私はこの映画を観るのが好きです。)

    一文中に両者が現れている例文からも、その違いを探ってみたい。

    11)Běnzhōu Běi Měi diànyǐng piàofáng shōurù páimíng qián 12 wèi de yǐngpiàn piàofáng zǒng shōurù yuē wéi 9050 wàn měiyuán.
    本周北美电影票房收入排名前12位的影片票房总收入约为9050万美元。
    (今週の北米映画の興行成績上位12作品の総興行収入は約9050万ドルになった。)

    “电影”“影片”それぞれの語と“票房收入”は結合できる。相互の入れ替えも不可能ではないが、文脈上「北米映画全体」としての興行収入と「上位12作品」という作品群を指す点から使い分けることができる。

    12)Diànyǐngjié qījiān fàngyìng de shíèr bù értóng yǐngpiànzhōng, yǒu sān bù értóng yǐngpiàn huò zuìjiā yǐngpiànjiǎng.
    电影节期间放映的十二部儿童影片中,有三部儿童影片获最佳影片奖。
    (映画祭の期間中上映された児童映画12作品のうち、3つの児童映画作品が最優秀映画賞を獲得した。)

    総合芸術としての「映画」の祭典には“电影”、その中で個別に与えられる映画賞(作品賞)には“影片”というように使い分けられている。

    ちなみに世界の映画祭には以下のようなものがあります。

    欧洲电影奖 Ōuzhōu diànyǐngjiǎng(European Film Awards)
    英国电影学院奖 Yīngguó diànyǐng xuéyuànjiǎng(British Academy Awards)
    威尼斯国际电影节 Wēinísī guójì diànyǐngjié(la Biennale di Venezia)
    柏林国际电影节 Bólín guójì diànyǐngjié(Berlin International Film Festival)
    中国长春电影节 Zhōngguó Chángchūn diànyǐngjié
    中国电影金鸡奖 Zhōngguó diànyǐng jīnjījiǎng
    大众电影百花奖 Dàzhòng diànyǐng bǎihuājiǎng

    (執筆:横山 康恵)

“上当”shàngdàng、“受骗”shòupiàn(二木 正明)
  • どちらも「騙される」という意味であるが、1)、2)のように置き換え可能であり、3)、4)のように“上当受骗”として使われることもある。“上当”は、口語で使われることが多い。

    1)Nǐ yào xiǎoxīn, búyào shòupiàn le.
    你要小心,不要受骗了。(上当)
    (気をつけて、騙されないように。)

    2)Qù hēishì huàn qián, hěn róngyì shàngdàng.
    去黑市换钱,很容易上当。(受骗)
    (闇市場で両替すると、簡単に騙される。)
    3)Shénmeyàng de rén huì róngyì shàngdàng shòupiàn?
    什么样的人会容易上当受骗?
    (どんなタイプの人が騙されやすいですか?)

    4)Zhè shí tā cái gǎnjué shàngdàng shòupiàn le.
    这时她才感觉上当受骗了。
    (このときやっと、彼女は騙されたことに気づいた。)

    “上当”には、5)、6)のように何らかの策略を考え、相手を陥れ、罠にはめる、その結果、相手が騙されるという意味合いがあり、策略面を強調する。

    5)Tā shì ge dà piànzi, nǐ shàngle tā de dàng le.
    他是个大骗子,你上了他的当了。
    (彼は大嘘つきです、あなたは彼の策略にはまったのです。)

    6)Báixuě gōngzhǔ shàngle wánghòu de dàng, chīle yǒudú de píngguǒ.
    白雪公主上了王后的当,吃了有毒的苹果。
    (白雪姫は王妃の考えた策略にはまって、毒入りのりんごを食べた。)

    一方、“受骗”には、7)、8)のように相手の言うことを信用してしまい、騙されるという意味合いが強い。

    7)Tā shì ge dà piànzi, nǐ shòule tā de piàn le.
    他是个大骗子,你受了他的骗了。
    (彼は大嘘つきです、あなたは彼を信じてだまされた。)

    8)Báixuě gōngzhǔ shòu le wánghòu de piàn, chī le yǒudú de píngguǒ.
    白雪公主受了王后的骗,吃了有毒的苹果。
    (白雪姫は王妃を信用して騙されて、毒の入ったりんごを食べた。)

    従って、相手の言うことを信用して、騙された場合は、9)、10)のように“受骗”を使う。

    9)Tā shuō tā méi jiéguo hūn, yuánlái tā de háizi dōu sān suì le, wǒ shòupiàn le.
    他说他没结过婚,原来他的孩子都三岁了,我受骗了。(*上当)
    (彼は結婚していないと言ったのに、実は3つになる子供がいて、私は彼の言葉を信じて騙された。)

    10)Nǐ jìngrán xiāngxìn suànguà de hú shuō bā dào, zhè bù shì gānxīn shòupiàn ma?
    你竟然相信算卦的胡说八道,这不是甘心受骗吗?(*上当)
    (あなたはなんと占い師の言葉を信じた、これはすすんで騙されたということではないか?)

    “上当”には、11)、12)のように、相手に勝利するための策略、作戦が功を奏したという意味合いもあり、敵を欺く戦略を称賛する語感がある。

    11)Zhūgě Liàng“ cǎo chuán jiè jiàn” shì《 Sānguóyǎnyì》 zhōng zuì jīngcǎi de gùshi zhīyī.Cǎo chuán jiè jiàn hòu, Cáo Cāo zhīdao shàngdàng le. 
    诸葛亮“草船借箭”是《三国演义》中最精彩的故事之一。草船借箭后,曹操知道上当了。
    (諸葛亮の草船借箭の計は三国志演義の中で最もいきいきとした故事のひとつである。草船借箭の計のあと、曹操は諸葛亮の策略にみごとにはまったことを知った。)

    12)Shìbīng men jìnrù shāngǔ zhīhòu, cái fāxiàn tāmen shàngdàng le, dírén zǎo zài zhèli máifu hǎo le!
    士兵们进入山谷之后,才发现他们上当了,敌人早在这里埋伏好了!
    (兵士たちは渓谷に入ったあと、敵の策略にはまったことに気づいた、敵は早くからそこに待ち伏せていた!)

    子供がエイプリルフールに冗談で騙したり、悪ふざけで騙したりする場合も、あらかじめ策略を考えてだますので、13)と14)のように“上当”を使う。

    13)Háizimen dà jiào:“Nǐ shàngdàng la, Yúrénjié de shǎguā.”
    孩子们大叫:“你上当啦,愚人节的傻瓜。”(*受骗)
    (子供たちが叫んだ:「あなたは騙された、エイプリルフール」。)

    14)Yúrénjié, wǒ yòu shàng le yī cì dàng.
    愚人节,我又上了一次当。(*受骗)
    (エイプリルフールに、私はまたもう一度騙された。)

    (執筆:二木 正明)

とっさのワンフレーズ

日常、人とのコミュニケーションでよく使う短いフレーズです。パッと口をついて出てこないといけないものばかりです。それでも、れっきとした文ですから,それなりの構造があり、理屈があります。それを理解した上であとは何度も口ずさみ、「とうに知ってるよ」という涼しい顔をして使いこなして欲しいものです。

日本語 :  雨だ。
中国語 :  下雨了。
     Xià yǔ le.

日本語は名詞が中心になりがちだが,中国語は動詞が大切だ。ここでも「雨が降っている,それに気がついた」という言い方をする。「雪だ」なら“下雪了。” Xià xuě le.である。存現文といい,「動詞+動作の主体」という語順をとる。動作の主体である「雨」や「雪」は新たに登場したものだ。反対に「雨がやんだ」は“雨停了。” Yǔ tíng le. とか“雨住了。”Yǔ zhù le.といい,これは普通の「主語+述語」文である。この「雨」はすでに存在していたものである。



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